「弥栄」とは、魔法の言葉だと思います。
善人も悪人も、全ての人の「成長」と幸せを願うのが「弥栄」の心です。
どんな悪人でも、「罪」によって破滅することが「終わり」なのではなく、その先に誰しもまた「生」があり、「成長」があります。
あえて大神が「悪」をお産みになられたのだとしたら、その存在や行いには必ず「理由」があるはずです。
どれだけ忌まわしく思えたとしても、目に見えない悪の「本質」を掴まなければ、神の「真意」はわかりかねるでしょう。
神が自らのうちに「宇宙」をお造りになられたのならば、私たちが見ているのは神の「肉体」そのものと言えます。
風一つ雲一つ、全てが神の御意志のままに動いており、草も虫もそうなのだとしたら、まして「人間」も神の一部であり、神の御心のままなのでしょう。
この世界で私たち人間は、自分の「意志と知恵」さえあれば、何でも自由にできると思ってしまいます。
しかし、何もかも「神」の一部だとしたら、始めるのも「神」だし、行うのも「神」、また終わらせるのも「神」に違いありません。
ゆえに、私たちは「神の御心」とは何なのか、常に気を巡らせる必要があるのです。
明治の文豪にも影響を与えた、イギリスの詩人ロバート・ブラウニングは「神、空に知ろしめし、すべて世はことも無し」という有名な詩の一節を残しました。
(ブラウニング作「ピッパが通る」より)
「年の春、
一日の朝、
朝は七時、
丘に露おりて、
ひばりがさえずり、
いばらにカタツムリ、
神は天にましまし、
すべて世はこともなし。」
劇詩「ピッパが通る」では、一年に一度の休みを得た機織り娘のピッパが、悪人の蔓延るアーゾロの町を、美しい歌を口ずさみながら朝から晩と練り歩きます。
ある一家では、妻と愛人が欲望の果てに夫を殺し、その死体を前にした時、ピッパの澄んだ歌声が聴こえてきて、改心を決めます。
ピッパの純粋な心にこそ、「天」の御心があるのかもしれません。
悪人を「改心」させてしまうような、遍く人々の成長と幸せを願う、そんな心でありたいものです。