「救い」の意味

今の世は「理屈」が力を持ち、そこに「金」が結びついて「政治」となっています。

まさに世は「」、神示に言うように九分九分九厘が「悪」の世です。

 

私は、そんな世界の息苦しさを何とかしたいと思ってきました。

ただ最近は、私が先回りして有象無象の正体について説いて回っても、それ自体に大した意味はないのではないかと考えるようになりました。

 

天が世界に「夜」をもたらすには、それなりの理由があるはずです。

私は悩める人を救うには、遍く「光」を配るべきだと考えていました。

ただ、天が一人ひとり自分の力で「光」を取り戻すことを願っておられるなら、私が先回りして手を差し伸べることは、かえって天の意志を邪魔することになります。

 

「救い」とは、決して「甘やかすこと」ではありません。

宇宙には「苦」を与えるだけの理由があり、必然があるはずです。

いくら人が苦しんでいるからと言って、強引に「救い」を押しつけることは、自分が思う以上に野暮なことかもしれないのです。

 

確かに、世に「苦しみ」はないに越したことはありません。

しかし、この「苦」が敢えて天からもたらされたものだとしたら、苦難を乗り越えること自体に意義があり、そのプロセスを「大峠」と呼ぶのかもしれません。

 

だから私がしゃしゃり出て、人の手を引いて回ることを、神様は許されないのでしょう。

おそらく神々は、「救える」と思う人しか救うおつもりはなく、私は予め救われた人しか関わることができないのだと思います。

 

そう考えると、自分ができることの小ささを感じます。

ただ、それ以上のことを神々が望まれないとしたら、この世界には今「闇」が必要であり、「苦」を敢えてもたらすことに意義があるからではないか、そう思えるのです。

「世直し」の記事公開

「招神万来」の方に、先ほど新しい記事を投稿しました。

「世直し」の仕組み

 

今回の記事のテーマは、世の「タテ直し」についてです。

もちろん、今月末31日の「射手座満月」についても解説しています。

 

やはり3月20日春分以降、世界の「二極化」は加速する一方のようです。

そんな中、世の「建て替え」の計画が徐々に見えるようになってきたのも興味深いと思います。

 

この記事では、最近「絵語」で呟いていたことも併せて、詳しく書いたつもりです。

久しぶりの長文投稿になりますが、ぜひお読み頂きたいと思います。

命捨て、命に生きる

人には誰しも「我」があり、108個の「煩悩」があります。

ただ「煩悩」を祓い清めて、「煩わしさ」や「悩み」を取り去ってしまっても、結局「」だけは残ります。

 

つまり「我」をいくら消し去っても、「欲望」を司る扁桃体や視床下部は残るので、「我」は消えきることはありません。

そこまで行くと、あるのは「我」ではなく「」であり、単に「自他」を切り分け、肉体としての自己を維持するための大切な要素となります。

 

「消費」が主たる現代において「我欲」を消し去ってしまえば、社会活動がうまく回らなくなる可能性があります。

しかし、ほぼ「幽界」に等しい現代社会で「神の道」を歩もうとするのですから、多少のリスクは覚悟しなければなりません。

 

今、「人間心」をできる限り捨て、逆に人間本来の生き方、あり方を取り戻そうとするのはとても勇気がいることです。

ただその時こそ、「命を捨てて命に生きる時」と言えるのです。

 

日月神示「雨の巻・第七帖」には、こうあります。

「役員、馬鹿にならねばならんぞ、大のつく阿呆になれよ、逆さ大の阿呆にあやまってくれるなよ、阿呆でないと今度の誠の御用なかなかだぞ、命捨てて命に生きる時と申してあろうがな」

 

「幸せ」というのは、誰かに「そんなことで幸せなのか」「他にもっと良い幸せがある」と言われても、自分にとって「かけがえない」と言える幸せこそ本物です。

そんな「唯一無二」の幸せを手にして、誰にも妨げられない場所こそが「天国」と言われるのではないでしょうか。

 

だからこそ、「人並み以上の幸せ」を求める必要はありませんし、それを望むことに大きな意味はありません。

その「礎」を築く場所こそが「奥山」であり、ここから新しい世が開けてくるのだと思います。

駆け込み「奥山」

今週が「奥山詣で」の当面最後になる時期とお伝えしています。

5月30日射手座満月を前に、霊的な「上昇気流」は日に日に落ち着き始めており、エアコンの駆け込み需要ならぬ「駆け込み上昇」が起きています。

 

すでに奥山におられた方は、新たに気場に入る人々の上昇をサポートするため、「霊人」としての活動が活発になっているはずです。

そのため、心身共に重圧を感じておられる時期かもしれません。

 

今、奥山に引き上げている人たちは「参道」に集まっています。

ここが「奥山」の入り口であり、この参道を進んだ先に霊団の気場が開かれています。

 

「奥山」は、神々の「救いの手」が入った人だけが入山を許されるからこそ、「我良し」という発想の持ち主ではまず関わることができません。

しかし私を含め、誰もが多少は「我良し」の気があるため、参道から徐々に「」というものを捨てながら、神の道を進んでいくことになります。

 

その途中で、今あるいらない荷物を捨てるうちに身軽になっていき、「身魂」は磨かれていきます。

そうして高い波長を持つようになった人たちが集まる気場だからこそ、奥山は「天国的」な霊団を形成するのです。

 

「霊主体従」の法則に従えば、霊的に天国的生活を送ることは、いずれ地上の生活もそうなると考えて良いでしょう。

また、霊的なレベルで「力」を得るということは、それも遠くないうちに実社会で発揮しうるようになる、ということだと思います。

 

些かフワフワした話に聞こえるかもしれませんが、実は「タテ直し」は霊的次元から始まっているのです。

これが本当かどうか確かめるには、もう少し先に進まなくてはなりませんし、時を待つ必要もあるでしょう。

 

ここで「信心」というものが試されます。

ここまで来て、神様からの「お蔭」を落とさないように気をつけたいものです。

「ガンバレ」と言う

「最近の若者は」と、若い世代をなじる言葉を聞かなくなったのは、大人たちの世代がどこか「疾しさ」を覚えているからかもしれません。

 

近年リリースされる新曲を聴けば、還暦も近い「大御所」のアーティストが、若者に向けて「ガンバレ」と歌うことに違和感を覚えることがあります。

少年少女にとっては、もう立場がそっくりある大人に「ここまで成り上がって来い」と言われているようにすら感じないでしょうか。

 

私はもはや「成功」というビジョンは、これまでの時代にあったものには求められないと思います。

むしろ今の若者たちにとってのテーマは「幸せになれるかどうか」であり、この世の中に握り潰されないように生きていくことなのではないでしょうか。

 

そんな中で世に「金」や「名誉」を求めれば、大人たちの踏んだ轍を素直になぞっていくに越したことはありません。

それが若い世代にはわかりきっているからこそ、「ガンバレ」という歌が空虚に聴こえるように思えてなりません。

 

ただ「ゼロ」から始めようとする若者たちに対して、私からも「ガンバレ」以上に掛けられる言葉はありません。

むしろ、私も一旦「ゼロ」に戻した側だからこそ、若者たちの抱える不安は決して他人事ではないのです。

 

これからの時代を生きる人たちは、「自分らしい幸せを手に入れる」という些細な願いを叶えるために、かなり理不尽な逆境を乗り越えていく必要があります。

私は一人の大人として、そんな若者たちに「一緒に成功しようぜ」というエールを贈るつもりはなく、世の中が少しでも生きやすくなるよう、私が「ガンバル」と約束することしかできません。

謎の「苗」

先日、「何の種を蒔いたか全く身に覚えのない芽」の写真を投稿しましたが、無事に成長しています。

 

 

見たところ、「」か実のなる植物っぽい感じがするのですが、それらしき種を蒔いた心当たりがありません。

しかも、蒔くにしてもこういう種の並べ方はしないはずですが、本当に不思議です。

 

花が咲いてからようやくわかるのでしょうが、そもそもこの子たちがどれくらい大きくなるかも未知数です。

植物を育てていて「怖いな」と思うことはあまりありませんが、私は一体何を育てさせられているのでしょうか?

待たれる「温故知新」

日月神示「黄金の巻・第二帖」には、「古いことが新しいことと思っているなれど、新しいことが古いのであるぞ」とあります。

 

これまでの経済は、機械による「モノづくり」から「IT」への流れを「先進化」と位置づけ、産業の多様性を細らせてきました。

特にモノづくりを支えていた中小規模の「町工場」で淘汰が起こり、資本の集中とデジタル化の流れは、特定の寡占企業の集権化を促しました。

 

今や世界有数のガリバー企業は「国家」や「政治」と結びつき、業界覇権をますます不動のものとしています。

それどころか、大企業の超富裕層は集権的な社会構造を維持しようとし、最も社会的恩恵を受ける人々となっています。

 

善し悪しはともかくとして、この社会構造の「非対称性」は文明から見て「持続可能ではない」と思います。

現在、国際情勢の不安定化によりサプライチェーンが脅かされ、一般市民は日常遣いのものすら手にしづらくなっています。

 

企業の巨大化と寡占化は、産業の「多様性」を毀損し、事案に対する流通リスクを高めることで、サプライチェーンの「ショック耐性のなさ」を露呈し、近年それが顕著に現れているように思えます。

 

私は、これから企業の「大鑑巨砲主義」時代は終わりを迎えると考えています。

なぜなら、利益構造の集中が現代社会にあらゆる弊害をもたらしてきた事実が、ますます可視化されると見ているからです。

 

結局、「技術」というものは「儲かればやる、儲からなければやらない」というサイクルの中で、高度な技術でも容易に「ロストテクノロジー化」してしまうのです。

それを象徴する日本の「町工場」を思い返すと、産業的な多様性を持つことの重大さと、「モノづくり」が複雑性を持つことの意義を感じてしまうのは私だけでしょうか。

 

自分の業界は、この一社がなければ成り立たない」というのは、冷静に考えれば危険なことです。

そのリスクが解消され、「モノづくり」の分野や実体経済が再び活況を取り戻すには、良い意味での「温故知新」が必要なのだと思います。

苦労が「得」な理由

今、「」に置いておかれる階層の人たちから、神々の「大掃除」が始まっています。

「天井」に近い場所ということは、普段から比較的綺麗で大した汚れもないはずですが、今は優先的に手が入っている状況です。

 

こうした方々は、かなり忠実に生きてこられたからこそ、ご苦労なされた方が多いのではないでしょうか。

常日頃から「苦」と向き合っておられるのに、最近は尚さら努力を要求され、辛く感じる方もおられるでしょう。

 

「神の道」は、最初の時ほど苦しく、後になるほど「楽」になるとされます。

対して「外れたやり方」は、初めから途中までは順調なのだけれど、後に行くほど行き詰まり、長くは栄えないものです。

 

「神の道」は永続性を持ちますが、「外道」は途中で頓挫する宿命にあります。

自分の「積み重ね」が後世に残るか、風化しても構わないのか、判断の差が命運を分けると言えます。

 

私たち人間は、近視的に目の前にあるものばかり見てしまいます。

ゆえに「楽なものほど良い」と考えますが、一段高い視野で眺めれば「段階」を踏むのに越したことはありません。

 

「永遠」の立場から見れば、「弥栄」の道を辿るものは残り、それ以外のものはどれだけ熱があっても、いずれ消えてしまいます。

「苦」を選択する人は、いずれ消えてしまうようなものに熱を注ぐ無意味さを知っているのです。

 

大事なのは、目先の苦楽を軸にして考えないことだと思います。

「苦労がない」というのは、それだけ「身につくものがない」ということであり、それはそれで気の毒なことなのです。

 

「神の道」に、一切の無駄はありません。

だからこそ、いらない苦労はしなくても良い「楽」な道とされる所以なのでしょう。

ただし、それは「苦労」という階段を地道に踏んでいくしかない道なのです。

トップに戻る