「善」はもう改まった後なのだから、あえて「改心」する必要がないじゃないか、と思われるかもしれません。
日月神示にある「根の音」からの改心とは、「悪の身魂」となっていた自分の心根に対して、「改心」を求める心にこそ「改心」がなければならないことだと気づきました。
「善は善で、改まる必要がない」という考えに実は「慢心」が潜んでおり、「我良し」に繋がってしまうのです。
そもそも、自分の心に「悪」を生み出してしまった原因がある以上、「善」の心にも不足があったことになります。
私の話をすれば、世や人やモノ、まして自分という「自分の力では及ばない」ことまで、努力や才覚で何とかできるという思い込みがありました。
世には「努力次第」でどうにかなる部分は確かにありますが、何もかも強引に自分の力でやり切ろうとする考えにこそ、慢心や「取り違え」があったと言えます。
自分に鞭打つことの無理押しは、「負の念」を心に沈め、「ゴモク」を腹に溜め込む要因となっていました。
これに気づかず、自分の「悪」となってしまった部分だけを取り除こうとすれば、逆に「負の念」を生み出す原因を見逃してしまうことになります。
それが例え「善」の動機でも、物事を曲げてしまえば「純粋さ」や「素直さ」は失われ、却って「悪」となってしまうでしょう。
この始まりが「純粋」なものであり「善」と呼べるものであるほど、「悪」を生み出す問題の本質が見えづらくなります。
このことに気づかず「悪」だけを滅しようとすれば、「善」は却って「善の外道」に陥り、「悪」に染まってしまうのです。
この誤りは、自分の目的を貫き「自分らしくあろう」、「善良であろう」とするほど陥りやすい「罠」でもあります。
そこで、「善」と思われていた部分から「悪」が生じていた事実に気づくことこそ、誠の「改心」と呼べるのです。
この2ヶ月に及ぶ、心の「大掃除」を通して「我とわからない我」という「悪」は、むしろ「善」の側にこそ潜むということに気づけたのは、本当に幸いと言えます。
「神の道」とは「中行く道」でもあるため、いずれ「善」も改まるべきと頭でわかっても、「善」の内に潜む「悪」こそ改めなければならないということは、本当に「盲点」と言う他ありません。