「我とわからない我」という「悪」は、本質的に「善」の性質があり「善と悪を鋭く事分ける能力」があるほど、陥りやすい「自縄自縛」の罠と言えます。
なぜなら、「善」の意識が高くあらゆる事象から「悪」を見抜く観察眼があるほど、あえて「善悪」で持ち回るべきでないことまで批判的な見方をしてしまうからです。
そして、その動機が「純粋」な善意に基づき、客観的に見ても合理性があるからこそ、「善」の側に改まるべき事柄があることを認識できません。
「神の道」とは平面的な「善悪」を総括する道であるため、この対立軸に対して「喧嘩両成敗」の立場を取る「善」こそが求められるのです。
日月神示「海の巻・第二帖」には、「神示を盗む化け物」があると述べられます。
「火の守護から水の守護に変わって居るのであるから、水の蔭には火、火の蔭には水ぞ、この事忘れるなよ、この中には化物いるのだぞ、化物に化かされん様に、お蔭落とさん様に致して下されよ、神くどく気付けおくぞ」
この「神示を盗む化け物」とは、「善」の中の「悪」に気づけず、自身の「悪」を見抜けない「誤謬」そのものではないでしょうか。
そして、この「化物」は実際に存在する「悪神」というよりは、「偽」という概念として存在する「神」の働きそのものと言えます。
この「誤謬」を放置したままであれば「善」の改心はならず、「悪」に対して一方的に「改心」を求めるだけでは、何一つ変わることはないのでしょう。
これが行き過ぎれば「善の外道」に陥り、「善」が元となり却って「神の道」は閉ざされてしまうのです。
「春の巻・第四十三帖」によると、「神の道」から外れた「外道」はいずれ無くなるとされます。
「平面的考え、平面生活から立体に入れと申してあろうがな、神人共に融け合うことぞ、外道でない善と悪と融け合うのぞ、善のみで善ならず、悪のみで悪ならず、外道は夜明け来れば消えてしまうぞ、夜明けの御用大切と申してあろうが、外道の悪殺すでないぞ、抱き参らすから消えるのであるぞ」
すなわち、「善悪」共に「改心」に至る「立体」の道こそ「一二三」であり、「善悪なき善」が開かれる道となります。
全ての「悪」を包括するということは、これこそ「善」の大道にして寛容なる「太道」と言えるでしょう。
ここに、仏教における「衆生救度」や「慈悲」の心が垣間見えるのは、私だけでしょうか。
「神の道」とは「神道」にして「仏道」と一つになる道とも言え、神示に言う「ミロクの世」とは「菩薩」の心を実地に移すことで、その実践が実を結んだ時代を意味するのかもしれません。