「阿呆」について

「神の光」を曲げて取るから、心に「影」が差して良くないことが起こる、そう日月神示には語られています。

「春の巻・第三十七帖」に、その対処法が述べられている箇所があります。

 

相手、八と出たら二と受けよ、人民と申す者はモノに囚われるから、何事も分からんから、十二と出、二十と出、三十六と出たらポカンとして分からんことになるぞ、十二と出たら一段ケタ上げて八十八と受けよ、また十二と受ける手もあるぞ、二十と出たら八十と和せよ、立体になればそれだけ自由になるのぞ、世界広くなるのぞ、早く立体さとってくれよ」

 

私たちは、思わぬアクシデントが発生した時、「8」と出たことに対して「0」に戻して対応しようとしがちです。

ゆえに「8」と出た時に、「2」と応じて一旦「10」にすれば、少なくとも物事は埋め合わせができることになります。

 

例えば、会社で家に忘れ物をしたことに気づいた時、一旦家に戻ったり言い訳して済まそうとまず考えますが、なかなか別の手段を取ることには思い至らないものです。

こういう時に柔軟な発想を持ち、「臨機応変」に判断を使い分けられるようになれば、突然の「アクシデント」に動揺しすぎることはないでしょう。

 

まして、出た数字を無理やり「0」に戻そうとすれば、また何かを「1」から考え「10」まで積み上げなければならなくなります。

そうすると、わざわざ「0」に巻き戻した分は「取り越し苦労」になってしまいます。

 

私たちが物事を曲げて取りがちな理由の一つに、「」があります。

仮に「5」を「我」とするなら、最初から「5」が積み上がっていると、もし「7」と出た時には「12」となってしまい、想定のキャパを超える恐れがあります。

そして、出た「7」が気に入らず、最初の「5」に戻そうとすれば、却って「0」に戻す場合よりも難しい判断が迫られます。

 

これが「我」があると、物事に「影」が差しやすくなる理由です。

神示に言うには、もし「5」に「7」が合わさり「12」と出れば、「88」で埋め合わせて物事の辻褄が合うとされます。

「引き算」をしないというのも大事ですが、中途半端な位置に戻そうという「欲」が働くのが「我」の特徴と言えます。

 

この最初の「5」は、これまで「善」の努力で積み上げた実力や知識、才覚があるほど崩しがたいものとなるはずです。

阿呆」になるというのは、この「5」を完全に「0」に戻して、これまでの累積をリセットして対応することなのだと思います。

 

「月光の巻・第四十九帖」には、こう述べられています。

「いつでも神かかれるように、神かかっている様に、神かかっていても、我にも他にも分からぬ様になって下されよ、くわ取る百姓が己を忘れ大地を忘れ、鍬を忘れている境地がまことのみたま鎮しずめであり、神かかりであるぞ、そこらでなさる行もそれに至る一つの道ではあるが、それのみではならんぞ、気付け合って、良きに進んで下されよ」

 

仮に農家の方が、自身の畑のことを忘れて農作業すら頭になければ、本当に「阿呆」と呼ばれてしまうでしょう。

普通は「それでどうやって生きていくんだ」と思われてしまうような事態と言えます。

 

しかし、それが「常識」ゆえ普通に考えると「小才」が出てしまい、却って「阿呆」になることが難しくなります。

「神に身を委ねる」とは、この「心配」を自身の積み重ねで埋め合わそうとせず、常に「0」の状態から、どんな数字が出ても受け流すことにあるのではないでしょうか。

 

確かに、起こりうる事態に前のめりで対応しようとするから、私たちには受け入れ難いことも出てきます。

このニュートラルな姿勢こそ「自然」のあり方であり、「過去の累積」に囚われないことこそ、「中今」を生きるということなのかもしれません。

トップに戻る