日月神示では、「立体」の世界を捉えることについて、何となく伺い知ることができる文節があります。
「月光の巻・第十七帖」に、こうあります。
「そなたの仕事は思い付き結構であるが、神の御意志を頂かねば成就せん、神と申しても、そなたが勝手に決めた神や、宗教で固めた制限された神ではないぞ、分かっただけでは駄目ぞ、行じねばならん、生活しなければならん、芸術しなければならん」
「勝手に決めた神」や「制限された神」とは、神道の「神」や仏教の「仏」、数多の宗教や神話の「神々」を想定していると考えられ、かの上位存在への「信仰」を通して「神の御意志」を伺うことができる訳ではない、という意味ではないでしょうか。
「神の御意志」を頂かねば仕事が成就しないことの真意は、通常の「神信心」のみで上手くいくとは限らない、そう解釈できます。
つまり「時の神」や「現宇宙の神=人間」、また「大神の御顕現」としての「宇宙」の働きを無視して自身の仕事が成功することはありえない、という意味に取れます。
そして、「神信心」のみでは「心」に念じるだけになりかねず、実際に「芸術」を生み出すには、自分の「頭」と「手」を動かさなければなりません。
ゆえに、「仕事」の成功は常日頃の心構えと「実践」から生まれる、そう仰っておられるように思います。
「神の道」とは「立体」を通り、さらに「複立体」「複々立体」と、超立体の世界へ至る信仰の道とされます。
こう説明すると、何となく難しく感じられるかもしれませんが、一帖前の「月光の巻・第十六帖」では、神の道を「立体」として捉えやすくなる一節があります。
「現われの五十柱の陰の、隠れた九柱、心して大切せよ、真直に真上に神を頂くと申す事は、上ばかりではないぞ、真下にも横にも前後にも、立体360度に真直ぐに、神を頂かねばならんと言う事ぞ、神人交流の第一歩」
簡単に説明すると、「五十連(いつら・五十柱)」には「火(カ・ヤ)」の神と「水(ミ・ワ)」の二柱がおられ、「火・ヤ」の神が「天」を、「水・ワ」の神が「地」に対応し、この二柱が「火水(カミ)」の原型となられます。
「天」を司る「火」の「五十連」と「地」を司る「水」の「五十連」を合わせて、二柱は「百綱(ももつな)」となり、かの一つとなられた神を「大日月(地)大神」と仰せられるのです。
ゆえに、先の「勝手に決めた神」や「制限された神」という、人間から見て一般的な「神々」は、「大日月大神」の御顕現(◯)の一部であり、さらにこの「宇宙」や、大神の御霊から分けられた「人間」もまた、二柱の「元つ神」から派生した存在と考えることができます。
「夏の巻・第二十帖」には、「人民の智の中に現れて来る時は、もはや大神では無いぞ、神であるぞ、原因の原因は中々見当とれん」とあり、これが「大日月大神(天日月大神・地日月大神)」という御存在に関して、神示をいくら読んでも捉えどころなく感じてしまう大きな理由でしょう。
しかし、ここで人間から見た「神々」が、神示によって否定されている訳では全くないことを留意すべきです。
むしろ、「宇宙」そのものを「神」と見るならば、それこそ「汎神論」の世界であり、目に見えない存在も目に見えるものも含めて、「神」となりうることを意味します。
「神の道」にあっては「天」も「地」も一つであり、「神界・幽界・現界」を網羅するがゆえに、「立体」の世界となるのです。
これを踏まえると、「神の道」では「生きること」そのものが「芸術活動」であり、「宗教的生活」になると言えるでしょう。