「才能」について

各人の「能力」の差は、私は「個性のうち」と考えて良いと思います。

本来、自分の「能力」をどう伸ばすかは本人の心次第であり、実際に社会や周囲が全てを決められるものではありません。

 

例えば、本気で「歌が上手くなりたい」と思うなら、音程が取れなかったりすると恥ずかしいものです。

しかし、カラオケで余興程度に歌うくらいで良いのなら、別に歌が上手くなくても平気なはずです。

 

まず自分が「どうなりたいか」があり、その目標に応じて必要な能力が決まってきます。

人生の時間は限られるので、全てにおいて「万能」を求めることは不可能です。

その選択をするのは、自分の人生に最も責任が持てる「自分自身」であり、その判断を社会や周囲に求めるから無理が生じるのではないでしょうか。

 

自分にどんな「才能」があるか以前に、とにかくやってみないと「得手不得手」はわかりません。

自分の生まれ持つ能力は、わりと「好き嫌い」に関係なくあるもので、何となく人よりできてしまうことを「得意」と言います。

 

この「得意」は、わりと自分が狙った分野で発揮されないことも多く、自分の欲しい能力以外を「才能」と認めないせいで、自分に備わった能力を見落としてしまうことすらあります。

多くの人は「自分には才能がない」と思いがちですが、実は「才能」の見方が間違っているのです。

 

「才能を選びたがる気持ち」も、自分の能力を見誤る一つの要因と言えるのですが、「能力が低い」と評価されることを恐れて、最初から挑戦を諦めてしまうのも、自分を「才能」から遠ざける大きな理由です。

大人でも子供でも、最初からできることが殆どないのは当たり前ですが、「できない」ということを過度に恥じる気持ちがあるのだと思います。

 

これは、社会的に「能力が低い」と思われることへの、忌避感の現れかもしれません。

ただ仮に、自分が音痴でも歌が上手くなりたかったり、歌うことが好きなら「やめろ」と言われても歌ってしまうものでしょう。

そして、歌が「下手だからやめるべきだ」と説得されて、大人しく歌うことをやめる人がいるでしょうか。

 

「才能」への最大の誤解は、社会的に役に立つことばかりに「能力」を求めるから、「能力の差」を過度に評価してしまうことです。

初心者だけでなく子供たちに対しても、「役に立つかどうか」が軸にあるせいで、上手くできないことを理不尽に責める理由が生じるのです。

そして、「役に立つこと」と「能力の高さ」は、決してイコールではなかったりします。

 

だから私は、「みんな好きにやったらいいのに」と思いますし、才能に対する「損得勘定」は、かえって勿体ないように感じます。

もう少し、人々の心にゆとりが生まれて、おおらかな時代になればいいな、とつくづく思います。

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