結局のところ、「自由主義経済」も国家権力と結びついてしまえば、公金やインフラ事業にアクセスする産業と金融業界ばかりが得をし、民間の多くの中小事業者が割を食う状況になってしまうわけです。
そうして「国家権力」と結びついた職能集団は、その財力で政治に関与することもできるでしょう。
これは「共産主義」も全く同じで、特定の既得権層が全体を統制し、「我田引水」の施策を優先してしまえば、大部分の大衆が「苗床」になる状況を作り出してしまいます。
そして、「資本主義」の象徴であったはずの米国とユーロ圏、「共産主義」の代表格たる中国も、同時に政治経済両面での危機を迎えています。
この事実は、特定の権能集団がその他大勢の民衆を組み敷く「全体主義」の構造である限り、どういった経済システムを採用しても持続性を持たないという事実の証左なのではないでしょうか。
「全体主義」は必然的に少数エリートへの権力集中を促し、その権能集団の暴走によって国家ぐるみで腐敗が進行するのです。
しかし、歴史で見れば「全体主義」にも道理はあり、古代のように地方自治体がバラバラの状態で、時に特定の集団が周辺に圧力をかけ始めると、地域全体に侵略や紛争などの軋轢が生じ「群雄割拠」の状態となります。
人類史は、この軋轢の「繰り返し」と言ってもよく、歴史の教訓として巨大権力による「統制」を必然的に求めるのでしょう。
ただ現在のように、中央政権に集中した権力が暴走を始めれば、国民がどうやっても政府や権能集団だけが勝手に動くという状況を作り出してしまうわけです。
「分散型社会」、小さな政府と地方分権が理想としては近いものの、政権としては一度「権力」を手にしてしまうと、既得権益をむざむざ手放す理由などないのも、まあまあ「人」としては道理かもしれません。
仮に「中央政権」を無くしたとして、「全体」の調和を図るために「掟」を作れば、今度は掟を定め、掟を破る者を裁く「権威」が必要になるでしょう。
その権威が暴走すれば、いずれ「全体主義」に結びついてしまい、また歴史を繰り返すことになります。
ゆえに「掟」を作らず、各自治体に権力が分散されながらも調和が図られる必要があるのですが、私が思うに、この「掟」に当たる理念が外圧ではなく内圧で発動すれば問題ないのではないでしょうか。
すなわち、「全体」として見ればバラバラの状態でありながら、「基本理念」としては統一され、その理念に対する修正力を各自治体が有する、これによって「部分としては独立しているが全体としては統一されている」状態が可能となります。
これが「統一主義」になると思います。
「統一主義」とは、「自分の好きなようにやりたければ、全体の調和を図る必要がある」という単純な話に過ぎません。
「全体」が安定するには、「自分」の勝手だけを優先することはできず、むしろ調和のために「敵対状態」であろうと助けることもなければなりません。
もし自分が「瀕する」状況に陥った時、支援を求められる関係を築くためにも、普段から「友好関係」を確立する必要性も生じてくるでしょう。
現代は「倫理観」一つでバランスの取れる豊かな社会に関わらず、「道徳」が失われたことで「法」に秩序を依存し、法律に明記されていなければ「何をやっても良い」という風潮となり、より法体系を複雑にしなければならないというループに陥ってしまいました。
制度によって罰するより、「道徳心」でやらなければ済む話でも規制をかけていった結果、今のように「相互監視」が必要な社会になったのです。
おそらく日月神示に「天国」には「掟」が存在しないと言われるのは、法に依存しない「相互扶助」の関係で社会が成立しているからではないでしょうか。
ただ、これを実現するには、「道徳の復活」以外に選択肢はありません。
それぞれが自分勝手にやっているようでは、今よりも強力な権威に「統制」をおもねる必要があるからです。