「芸術」とは何か

よく勘違いされるのですが、「需要」は「人気」があるから発生するのではなく、「必要性」があるから生じるものです。

例えば「弁当」も「車」も、「必要」だから売れるのであり、より優れたものなら更に売れるというだけのことに過ぎません。

 

ただ「娯楽」や「芸術」など、こうした人間が生きる上で「二の次」となるような文化は、わりと時代の「経済的な豊かさ」に裏づけされたものだったりします。

「必要性」で考えたら、よほど呪術的な魅力がない限り「文化」は生きていく上で欠かせない訳ではなく、極端に言ってしまえば「人気」だけでも「需要」を作り出せてしまうものです。

 

「売れる」こと自体を目的とするのであれば、人気のあるところで人気の出ることをすれば、人気になるのは当たり前です。

問題は、「人気」がなくなった時に同じことができるかどうかにあります。

 

「人気」というのは、「必要性」があるから生じるとは限りません。

時と場合」によって移り変わるものであり、そのサイクルは恐ろしく速いものだったりします。

この時、「人気」に関係なく「自分の表現」として続けられるかどうかに、「芸術」の境目があると言っても過言ではありません。

 

「人気」や「需要」があるからやるのではなく、自分が「必要性」を感じるからやらざるを得ず、また「やってしまう」ところに「芸術」はあります。

「芸術」とは「自発性」に宿るものであり、「自分」が軸となるからこそ「表現」として生み出されるものなのです。

 

自分から「需要」がないようなことでもやるわけですから、「表現」として人に伝えうるためには「需要」を自ら作り出さなければなりません。

そもそも「見向きもされない」ならば、自分の考える「必要性」は誰にも伝わらないため、人が「興味」を持つような工夫はどうしても必要になります。

 

ここで、人に伝わりやすくするために「表現力」が求められるのですが、この一つの手段として「技術」があります。

「技術」を高めることで表現の精度が上がり、多くの人に効率良く短時間で「主旨」を伝えることができるようになります。

 

表現者は、しばしば「評価」を求めるあまり「技術」に傾向しがちですが、「力」だけを高めても「伝えたいもの」がなければ意味がありません。

「見てくれ」だけを競うなら、技術力だけでも「芸術」と見做されうるのですが、表現者が「評価」を求めて競うことは、単なる「力の応酬」に過ぎないことだってあります。

 

これこそ日月神示で、今日の芸術が「死の芸術」であると言われる所以でしょう。

「自分」にとってやらざるを得ないことであり「必要」だからやる、やってしまうのが「芸術」という行為であり、またその「必要性」を説くことで生み出されるものが「芸術」です。

 

こう言うと「見向きもされないことをやり続けるのか」と思われるでしょうが、肝心なのは「商売」にならなくても「芸術」は「芸術」だということです。

もし、それが本物の「芸術」ならば、いずれ「時代」が求めるでしょう。

 

その瞬間が訪れるまで、折れずにやり続けることも芸術における「能力」の一つと言えるのですが、それは技術というより自分の「気持ち」次第です。

世は「金が稼げなければ、評価されなければやる意味がない」と考える風潮があります。

しかし「結果」を高いところに求めるからこそ「芸術」は「芸術」たりうるのだと、私は思います。

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