欲しがりません、勝っても

神様から与えられる、あらゆる能力や物質的な援助について、人間は余すところなく自分のものと思い込み、得られる全てのものを自分の懐に入れたがるという話をしました。

 

これを「水道」に喩え、水が神から与えられる恵みとすれば、「蛇口」である自分は栓を開けるか閉じるかしかなく、人々が欲するのは「水」のみであり、水を与えた報酬を受け取る権利が蛇口にある訳ではありません。

当然、「蛇口」である自分は栓を開閉した労力を伴っているのだから、水を出した報酬は無くてはならないと考えるでしょう。

 

しかし、自分が予め製造された「蛇口」である以上は、厳密にはその身体も神の作り給いしものであり、自分のものと言える唯一のものは「身魂」しかないのです。

 

ここまで言うと反感を買ってしまいそうですが、これが「過剰」と感じてしまうくらいには、私たちはあらゆるものを自分のものと思い込み、自分のものにしようと思っている証拠です。

これを「当然」と思うからこそ、こう言われたら腹も立つでしょう。

それこそが「慢心」なのです。

 

この心根を変えるために、私はこう考えてみました。

「蛇口」であるうちは、まだ自分が何かをやっているという気持ちがあります。

それなら、「まな板の鯉」になってあらゆる調理を待つだけにしてみたらどうか、と。

 

まな板の鯉は、神の手で勝手に捌かれ、どう料理されても文句は言えず、どんな料理で出されてどう処理されるか、どう評価されるかも為すがままです。

下手すると誰にも食べられず、捨てられるかもしれません。

しかし、それでも料理を提供するのが神の意思なのですから、まな板の上の鯉は調理されるのを待つことしかできません。

 

まな板の鯉は何一つ受け取ることもなく、逆に自分の身を切って与えるだけです。

これこそ「無我」であり、奉仕精神の極致なのです。

 

私は、こう考えると「対価」を期待する心の浅ましさを深く理解できました。

対価自体も、神様が用意なされることであり、心配の対象にするべきではありません。

それくらい自分の意を削り取って、ようやく神の御旨に沿うことができるのです。

 

「水」の神様に恋をした鯉が、川を走り滝を遡り「龍」になって天に昇るとしたら、確かに伝説になるかもしれないのです。

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