おそらく、神の国や天国に「他責」という観念はありません。
例え「悪」に見えても、それぞれが「役割」であり、「必然」の能きであることが明らかだからです。
もちろん、「悪」が全ての元凶でないのは、地上の世界でも一緒です。
私たちは普段の生活でもカチンとすることがありますが、例えば少し人と波長が違ったり、ちょっと我が出てしまっただけで「怒り」という感情が湧いてしまいます。
どれだけ気をつけても、どんな修行を積んでもカチンとすることはあるでしょう。
神示の中では「慢心を改めよ」とサラッと述べられることでも、私たち人間にしてみれば一生かかっても難しいことなのです。
「扶桑の巻・第十三帖」には、こう書かれています。
「三千年に一度と言う、二度とない結構な時が巡り来ているのであるぞ、難しい事申しているのでは無い、為せばなるぞ、
自分の中の自分を掃除して、自分の外の自分を洗濯して磨けと申しているのぞ、磨けば神と同列のミタマぞ、釈迦ぞキリストぞと申してあろう、
内にあるものを磨けば、外から響くものも磨かれた、穢れ無いものとなるのじや、中の自分を掃除しないで居ると、いつまで経っても、岩戸が開けていても岩戸は開けん」
「身魂磨き」とは、心を綺麗にする「掃除」、身体(口と行動)を綺麗にする「洗濯」、この二つが合わさって「身と魂」の祓い清めになるのです。