日月神示の「極めの巻・第十五帖」では、「赤子心になれば打たれることはない」とあります。
「右の頬を打たれたら左の頬を出せよ、それが無抵抗で平和の元じゃと申しているが、それは無抵抗ではないぞ、その心根をよく洗って見つめよ、打たれる様なものを心の中に持っているから打たれるのぞ、
誠に居れば相手が手をふり上げても打つ事は出来ん、よく聞きわけて下されよ、笑って来る赤子の無抵抗は打たれんであろうが、これが無抵抗ぞ、左の頬を出す愚かさを止めて下されよ、世界一家、天下泰平じゃ」
悪神や「神に仇なす者たち」は、わざと「怒り」を喚起するような挑発をしてきます。
「闘争」こそが彼らの喜びだからであり、「怒り」という幽界のフィールドに「善の心」を引きずり込むことができるからです。
「向こうが剣を持って襲ってくるのだから、こちらも剣を持たなければならない」と普通は考えます。
しかし、それでは「幽界の戦い」に巻き込まれてしまい、かと言って「無抵抗」を選択すれば一方的にズタズタにされるだけです。
この厄介な相手と正しく戦うには、まず相手を呼び寄せる何かが自分にあることに気づくことです。
「敵」が現れるとしたら、自分の心に「敵」が潜んでいたということです。
ここで「心当たりがない、相手が勝手にやって来たのだ」と思う心こそ「慢心」であり、ここをまず改めなければいけません。
これこそが「戦い」であり、身魂の掃除洗濯であり、悪を抱き参らせる唯一の方法です。
「剣を持つ相手」を前にして、ラッパを出して太刀打ちできると思う人はいません。
しかし、ラッパ吹きの武器は陽気な「音楽」である以上、絶対に刃が立たないのです。
この最も極端な例えが「笑っている赤子」の真意です。
もちろん、赤子の真似をしているだけではダメで、そこまで出来れば波長が違いすぎて悪は近づけないのです。
ここに「霊界」の妙味があり、「弥栄」の智慧があるのだと思います。