人には誰しも「我」があり、108個の「煩悩」があります。
ただ「煩悩」を祓い清めて、「煩わしさ」や「悩み」を取り去ってしまっても、結局「脳」だけは残ります。
つまり「我」をいくら消し去っても、「欲望」を司る扁桃体や視床下部は残るので、「我」は消えきることはありません。
そこまで行くと、あるのは「我」ではなく「私」であり、単に「自他」を切り分け、肉体としての自己を維持するための大切な要素となります。
「消費」が主たる現代において「我欲」を消し去ってしまえば、社会活動がうまく回らなくなる可能性があります。
しかし、ほぼ「幽界」に等しい現代社会で「神の道」を歩もうとするのですから、多少のリスクは覚悟しなければなりません。
今、「人間心」をできる限り捨て、逆に人間本来の生き方、あり方を取り戻そうとするのはとても勇気がいることです。
ただその時こそ、「命を捨てて命に生きる時」と言えるのです。
日月神示「雨の巻・第七帖」には、こうあります。
「役員、馬鹿にならねばならんぞ、大のつく阿呆になれよ、逆さ大の阿呆にあやまってくれるなよ、阿呆でないと今度の誠の御用なかなかだぞ、命捨てて命に生きる時と申してあろうがな」
「幸せ」というのは、誰かに「そんなことで幸せなのか」「他にもっと良い幸せがある」と言われても、自分にとって「かけがえない」と言える幸せこそ本物です。
そんな「唯一無二」の幸せを手にして、誰にも妨げられない場所こそが「天国」と言われるのではないでしょうか。
だからこそ、「人並み以上の幸せ」を求める必要はありませんし、それを望むことに大きな意味はありません。
その「礎」を築く場所こそが「奥山」であり、ここから新しい世が開けてくるのだと思います。