日月神示「月光の巻・第五十一帖」の一節からです。
「そなたは一度神を捨てよ、神にしがみついているから、小さい囚われたゆとりのない神をそなたが作り上げているぞ、信ずれば信ずる程危ないぞ、大空に向かって大きく呼吸し、今までの神を捨てて心の洗濯をせよ、神を信じつつ、迷信に落ちていると申してあることをよく心得よ」
写真は、私が肌身離さず身につけていた「火防瀧澤神社」の御守りです。
お授かりした時に付属していた水色の紐は、すぐに汚れることがわかったので、別の江戸打ち紐を購入してつけ替えていましたが、身につけている間に黒ずんでしまいました。
私がこの御守りを肌身離さなかったのは、それだけ「瀬織津姫命」という神様を拠り所にしていたからです。
それだけ私にとって御存在を身近に感じていたということであり、その分、私が不安な日々を生きる中で、神様に縋りつきたい気持ちも強かったということです。
自分にとっての「神信心」と、日月神示にある「誠の信仰」が異なること、「神の道」を踏む上で相容れぬ部分があることは、十分理解できるものだったのです。
けれど、その「思い」が強すぎると、それは「信仰心」ではなく「執着」であり、最後の最後には「我」に堕ちていたことに気づいてしまいました。
「肉体」を持つ人間には、霊の世界はおろか「神」の世界のことは殆ど知り得ません。
だから、自分の霊的感覚でも神示から得た知見であっても、それがそっくり「真実」ということはあり得ないでしょう。
私が「瀬織津姫命」という神様を強く掴んで、小さく丸めて懐に大事にしまっておきたいという気持ちが、瀬織津姫様の御心であるはずがありません。
むしろ「神様」の願いは、手放してでも「真の姿」としての神を掴んで欲しい、というのが御本意であられるのでしょう。
例え「自分の神様」を手放しても、自分の信じた神様が「妄想」だったり、信仰心が「嘘偽り」であったということにはなりません。
本当の「信心」に至るために、もっと神の真髄を知るために、「人間の作り出した神」であってはならないのだと思います。
ただ、人間には「神界」のことを殆ど知ることができず、私の信心に「虚妄」が混じる面があるにしても、なぜか全てが「嘘」と思えない部分があるのも確かです。
どうしても私の信仰心には、何らかの「魂の記憶」が根底にあるとしか思えないのです。
なぜそう思うのか、なぜそう強く感じてしまうのか、今の私には説明がつかないのですが、これが本当に「虚妄」なのか、どこまで「真実」なのか、この「道」をもう少し進まないとわからないのかもしれません。
それを知るには、生きながら「神界」に近づくしかありません。
そして、自分の「確信」がどれほどのものなのか、私は確かめたいのです。
