日月神示「風の巻・第八帖」には、こうあります。
「海にはどんな宝でも、竜宮の乙姫殿持ちなされているのだぞ、この世の宝は皆、この方作ったのだぞ、神の道は無理ないと申しても楽な道ではないぞ、もうこれでよいと言う事ない道だぞ、日本の人民も渡って来た人民も、世持ち荒らした神々様も人民も、世界の人民、皆思い違うぞ、九分九分九厘とで物事成就するのだぞよ、
世を持たれん、天地の大泥棒をこの世の大将と思っていて、それでまだ眼覚めんのか、よく曇りなされたなぁ、建て替えは今日の日の間にも出来るなれど、あとの建て直しの世直し中々だから、人民には少しは用意出来んと遅くなるばかりじゃ、それで型を出せ出せと申しているのじゃぞ」
私の日月神示解説では、「竜宮の乙姫」を「撞賢木向津姫命」、かの神様は「天照大御神」として伊勢神宮にお祀りされ、また「祓戸大神」の「瀬織津姫命」として尊崇なされていることを御紹介しています。
「竜宮の乙姫」は「御三体の大神」の御一柱であられる「つきさかきむかつひめの神」として、また「十柱の神々」などにも数えられ、神示の中でも重要な立場にあられる神様です。
しかし、上記の一文を読んでみると、本来なら「世を持たれない」神が今はどんな「お宝」でも持っており、これを「天地の大泥棒」と表現し、かの神様を人は「大将」と信じていると語られています。
これは、まるで「日本」の国家最高神であられる「天照皇大神宮神」を悪しざまに申すような表現になっています。
また「碧玉の巻・第六帖」では、さらにこうあります。
「見えるものは有限じゃ、この世の大泥棒をタカヤマじゃと申して、この世を自由にさせておいて良いのか、元の元の元をよく見極め中の中の中の見えぬものを掴まねばならんぞ、そこから正さねば、外側からばかり清めても何もならん」
「大祓詞」では祓戸大神「瀬織津姫」の行で、「高山の末、短ひき山の末より佐久那太理さくなだりに落ち多岐たぎつ」とあり、またもや引用文で批判の矛先としているばかりか、「外側ばかり清めている」と言わんばかりの表現となっています。
なぜ「御三体の大神」として名が高い「つきさかきむかつひめの神」が、まるで「悪神」であるように語られるのでしょうか。
「海の巻・第七帖」に、こうあります。
「今までは枝から根が出て、大切なミキが無くなって居たのじゃぞ、中つ代からの神では何も出来んと申してあろうがな、神と人と一つになって一つの王となるのじゃ、上下揃って一つになるのじゃ、善も悪も融合あなないして、一つの新しき善よとなるのじゃ、王となるのじゃぞ」
「伊弉諾命・伊奘冉命」の二柱、厳密に言えば「ナギの神(国常立大神)・ナミの神(豊雲野大神)」を「根」とするなら、その御子神であられる「つきさかきむかつひめの神」は、「中つ代」からの神であり「枝葉」の神の一柱に当たります。
また「命」と尊称される御神格は、厳密には「身魂」を持つ神々であって、「神の神」を意味する「大神」から見れば「枝葉=外側」の存在となり得るのです。
要は「根」ならず「枝葉」の神を、人々が「天地の最高神」として崇拝し、肝心の「幹(ミキ)=大日月大神」としての御神格を見失っていることを、神示はご批判なされているのです。
「枝葉の神」とは「◉(大神)」の「◯(ミ)」の一部であって、まして「・(キ)」でもないからこそ、「マコト(◉)ではない」という表現になっているのだと思います。
こう説明すると、「耳が逆らう」方がおられるかもしれません。
私自身、「瀬織津姫命」を崇拝して常日頃からお祀りしておりますから、自身の信仰を揶揄されているようで、正直言うと良い気持ちはしませんでした。
しかし、私たちが崇敬する「八百万の神々」を「大日月大神」の御顕現の一部とするなら、「枝葉の神々」を中心とする「自分にとって都合の良い信仰」ではなく、三千世界の「真理」としての「誠の信仰」に立ち返ることが「神の道」なのです。
また「碧玉の巻・第二帖」では、こう述べられています。
「気の合う者のみで和して御座るなれど、それでは和にならんと知らせてあろうがな、今度は合わんものと合わせるのじゃ、岩戸が開けたから、逆様のものが出て来ているのじゃ、この行、中々であるなれど、これが出来ねば岩戸は開けんのじゃ、誠の神さえ魔神のワナにかかって御座るのじゃ、人民が騙されるのも無理ない様なれど、騙されていては今度の御用は成就せんぞ」
さらに「極めの巻・第五帖」には、こうあります。
「清めるとは和すことぞ、違うもの同志和すのがマコトの和であるぞ、8までと9、10とは性が違うのぞ」
私の話をすると、初め「瀬織津姫命」という御神格への崇敬から始まった「神道」が、「日月神示」と出逢い途中から「伊弉諾命」に紐付き、最終的には「善悪なき光の大神」を崇敬すべき信仰の道、「神の道」に入っていくことになりました。
これは、「瀬織津姫様大好き」の私からすると腑に落ちない部分も正直あったのですが、しかし真の「大和」のためには、全く性格の異なる「大神」様をお祀りすることを避けて通ることはできません。
たしかに「一〜八」までをこれまでの世とするなら、「天照皇大神宮神」を最高神に据えてお祀りすることも許されたでしょう。
しかし「岩戸」が開かれ「◯九十(マコト)」が現れた以上、「八方世界」の神々ではなく「誠」の神を奉じなければならないのです。
「神の道」を踏むためには、ここで自分の崇拝する「神」を軸にすることは「我良し」の信仰であり、「悪」となってしまいます。
だからこそ、まず「頭を空っぽ」にして「神様」を大きく捉え直す必要があります。
それは個人感情として「望まぬ信仰」かもしれませんが、真剣に「神の道」を進むならば、そんなところで変にこだわり、道を踏み止まってはいけないのです。