私はこれまで、オリガルヒの「選民思想」が政治化した「グローバリズム」や、金権政治と有力産業が結託した「アメリカ帝国主義」、あまりにも社会的に問題の多い「生成AI」など、世界的な混乱の原因とも言える、これらの事象を論評してきました。
しかし「神の道」を踏むことになった今、全てが「大神」の胎の中で起こる「神の働き」であることを伝える立場となったからには、「事実の摘示」は必要であっても、これらの事象を「批判」するべきではないのです。
例えば「パンにカビが生える」のも「花瓶が落ちて割れる」のも、私たちから見れば「禍事」に思えるでしょう。
その現象が起こる要因は別にあるにしても、食べ物を腐らせる「細菌」や、モノが壊れる「重力」そのものを「悪」と考える人はいません。
これと同じように「人」の行いに対しても、一方的に「忌むべきもの」として捉えてはいけないのです。
それが例え「悪」として目に映っても、そこに宇宙の「摂理」があり、この事象をもたらした天には何かしらの「意義」があるはずだからです。
「禍事」は、その事象のもつ「意義」に対して、顧みるきっかけを与えられているに過ぎないということです。
ゆえに「悪」とは、自らに「反省」を促し、「学び」として知見を得て、「乗り越える」ことで「克服」されるべきものとしなければなりません。
ここで「悪」を「排除」することだけを唯一の解決策とするから、一つの「原因」を取り去っただけで根本的な「改善」とならず、同じ問題を繰り返すことになるのです。
だからこそ「悪」を「悪」と見做して終わらせるのではなく、それを「改善の礎」として物事を前進させていく必要があります。
それこそ、「光」さえあれば世に「天国」しかないようにできたはずの世界に、大神があえて「闇」をお造りになられた理由なのではないでしょうか。
「悪」があり、「禍事」と思える出来事を通して「成長」するからこそ「弥栄」がある、そのために「逆境」をもたらす存在もまた、「神の働き」の一部と考えるべきなのです。