人が「不幸」になる理由

日月神示「富士の巻・第六帖」では、こう述べられています。

「今は、善の神が善の力弱いから、善の臣民苦しんでいるが、今しばらくの辛抱ぞ、悪神総がかりで善の肉体に取り掛かろうとしているから、よほど褌ふんどし締めてかからんと負けるぞ、親や子に悪の神懸かって苦しい立場にして、悪の思う通りにする仕組み立てているから気を付けてくれよ

 

「悪神」ならず魑魅魍魎の類は、人間の「心の隙間」に入り込み、いがみ合うべきではない者同士を争わせ、「悪心」を助長させて人や世に被害をもたらすよう働きます。

悪神に魅入られた人は「運気」が著しく落ち、また欲を掻き立てられ自分だけが得をするような行動を取り、それが結果的に「不幸」をもたらすきっかけであったりします。

 

多分に人々は、災いが起こる原因が「霊障」にあると認識できないため、謂れもない「人」や「もの」などを勝手に「原因」と思い込み、それに対して一方的に恨んだり敵意を持ったりします。

こうして「親と子」「夫婦」や「友達」「隣人」など、本来「いがみ合うべきではない者」同士が争う構図が生まれるのです。

 

この時、人に「禍事」をもたらす悪霊たちは「霊懸かり」によって起こる人間界の混乱を純粋に楽しんでおり、しかし彼ら自身に「悪気」はなく「無邪気」であったりします。

彼らに「悪意」がないからこそ、ますます底知れない「悪」にすら見えるでしょう。

 

私は何度か「憑依」のメカニズムについて解説してきましたが、いわゆる「悪霊」が肉体に懸かろうとするのは、単に自分に同じ「波長」があるからです。

その波長の原因となるのは、人の「心の隙間」に潜む「」であったり、自らの行いによる「罪穢れ」であったりします。

 

ただ先にも述べた通り、大抵の人は「憑依」や霊障と感じず、目に見える原因を探して「問題解決」しようとし、誰かを責めたり攻撃してしまうわけです。

「神に仇なす者たち」は「目に見えるもの」だけの世界観を作り上げることによって、人々が「目に見えないもの」から目を背け、霊障の原因に気づかず「祓い清め」の意義も知らなければ、この「無知」を隠れ蓑にして暗躍し続けることができるでしょう。

 

だからこそ「目に見えないもの」を捉える目を養うこと、正しい「霊的知識」を身につけることが重要な意味を持ちます。

そして、「悪霊」を招き「運気」を下げる原因が自分の心や行いにあること、またそれを心がけ、常に自らの「波長」に意識を向けることも大切です。

 

「祟り」とは「めるべき神」が身から「る」ことで悪神が「り」をなすのです。

すなわち「悪神懸かり」とは「善なる神」との繋がりが途切れることであり、その加護が働かずに「悪神」の影響を受けることで、悪霊が「祟る」状態と言えます。

 

こうして見れば、ご自身の「過ち」にも心当たりがあるのではないでしょうか。

だからこそ「目に見えない世界」を信じること、神仏を敬い「罪穢れ」を祓い清めることは、不用意に「不幸」を招かないためにも大切なことなのです。

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