「神」と「悪神」

日月神示は、世が三千年も乱れたことについて、あえて「闇」をお産みになられた「大神」への「弁護」と、何らかの「しくじり」をなされた「天之日月神」による「弁解」の意図が垣間見られ、この世をお造りになられた神様ゆえの「心苦しさ」が読み取れます。

 

日月神示は、「闇の世」が最初から計画にあったということ、「悪の栄える時代」が予定通り終焉を迎え、新しい世が拓かれることを予告することで、私たちの苦しみを「救済する」内容となっています。

そして、「ミロクの世」を前に「日月神示」の信憑性が現実味を帯びてきた今、まさに神示は「活きた教え」として現れているように思えます。

 

現在、「悪神」の勢力はだいぶ自由が効かなくなり、霊力が削られ「新たな趨勢」を築くための発想すら欠落した状態と言えるのではないでしょうか。

勘が鋭い方ならお分かりかもしれませんが、この「悪あがき」の様相は実にわかりやすく、まるで「尻尾が見えている」ようです。

ここまで「姿」を表したのなら、自身の存在をもはや「無いこと」にするのは難しいのでは、とすら感じます。

 

同時に、「神に仇なす存在」がこれほど分かりやすく浮上してきたという事実は、逆に「神の存在」をも浮き彫りにします。

まして、もはや「神々」はご自身の御活動をなるべく「自然」に見せようとする工夫や、その「存在感」を隠そうとはなさらなくなったように見えます。

 

なぜ、これまで「善の神々」の御力が弱まり、「悪神」が跳梁跋扈する時代が続いたのかと言えば、「ミロクの世」となれば「悪」のあり方が変わるからと考えられます。

 

「神に仇なす者たち」は、「神」の存在を否定することにアイデンティティを持ちます。

そんな彼らにとって、自身が「神によって生み出され、神の掌から出ることが不可能な存在である」という事実は、どうしても認めがたいもののはずです。

 

これまで「悪神」の暴走が一方的に許されてきた理由は、「どれだけ神に抗っても無駄である」ことをわからせると共に、この神々を「改心」させて「弥栄の世」に引き入れるためであると言えるでしょう。

それゆえ「精魂尽き果てる」まで暴れ回らせ、世を「悪の全盛」に振り切らせてまで、自分たちのやり方が続かないことを教える必要があったのではないでしょうか。

 

これが「悪を抱き参らせる」の真意であり、闇の群勢に一切の危害を加えることなく、世を丸ごと光の趨勢に切り替える「大神」の御計画なのだと思います。

だからこそ「善の神々」は三千年もの間、どれだけ踏みにじられても堪え、大地を穢され国を割かれようと、必死に耐えてこられたのかもしれません。

 

これも「大神」の御心であり、神々も世も人も、「弥栄」するためには通らなければいけない道だったと考えられます。

そのため、今起きていることは「必然」であり、これから起こることも「必然」と言えるはずです。

 

総てが「神のシナリオ」である、そう考えたら見えてくるものがあるでしょうし、それゆえ「心配」は必要ないのだと思います。

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