私は子供の頃から、周りの子たちや大人がすることに「どうしてそんなことをするのか」という疑問を抱いていました。
人が何食わぬ顔でしていることに「違和感」を感じ、自分もそれをしながらも納得できずにいたのです。
幼い自分には、いつも抱えている「モヤモヤ」の正体がわからず、この感覚を理解してくれる人も周りにいませんでした。
大人になり、社会で生きていくにつれて、それは「苦悩」そのものとなっていきました。
これまで、この「ズレ」を埋めるために色々なことをやって来ましたが、結局わかったのは「不向きなこと」「苦手なこと」を無理に押してまで、人との溝を埋める必要はないということです。
「自分は自分」「他人は他人」であり、「ズレ」が平行線のままであろうと、無理に合わせて「不幸」になるより遥かにマシです。
これは「無理をして得るものより、失うものの方が大きい」という、私の経験則から弾き出された結論です。
そして、無理した上での「勝利」が「幸福」を意味するとは限らないのです。
だから今では「自分には自分の勝負の仕方があり、幸せの掴み方がある」と言えるのですが、ここまで割り切るには相当な時間を要してしまいました。
こんな単純な「答え」と引き換えに費やされた努力は、そのまま「報われぬ半生」として残ったことは否定できません。
この「経験」と「学び」が、神様が私に与えて下さった「試練」によるものならば、きっと何かしら意味があるのでしょう。
私の半生は、普通に人が生きる上でぶち当たるようなものではない苦労ばかりでしたが、そのことを今さら嘆いても仕方ありません。
「光」を強く求めるほど、「闇」は激しくついて回ります。
そんな「闇」を疎ましく思い、どれほど引き剥がそうとしても、「光」と「闇」はセットなのですから、素直に「世界の半分」として受け入れるしかありません。
「光」あれば、「闇」あることを受け入れてこそ「全て」を知ることができ、「物事」の本質を理解できるのです。
「光」だけでなく、「闇」も愛することは「宇宙」を愛するに等しく、それは「神」を愛することであり、また「自分」を愛するということでもあります。
だからこそ私は人生の「闇」、世の「闇」を引っくるめて「愛する」ことにしました。
どれだけ悲しくても苦しくても、自分に降りかかる全ての物事を肯定することが「人生」を、また自分を取り巻く「宇宙」を愛するということだと思います。
それが心底「嫌」なものでも、許し難いものであっても、例え「好き」になれなくても「愛する」ことはできるはずです。
もちろん、自分を苦しめたり嫌いだと思うものほど、愛するのは難しいものです。
すぐにできなくても、「愛そう」とする気持ち、その努力が大切なのだと思います。
ここまで学んだからこそ、自分の「しがない人生」にも一応の意味があったのかもしれない、そう今では思うのです。
なるべくなら、私の人生が「学び」だけで終わらずに、ちゃんとした「幸せ」に結びつけばいいなと思ったりもします。