「愚かさ」について

「嫌いなものを愛する」というのは、言葉では簡単でも実際にやるのは大変です。

それは「愛」という言葉を「好き」という意味での「肯定」と考えるから、難しく感じてしまうのかもしれません。

 

「悪」は「我良し」であるために「弥栄」せず、どれだけ栄えても一時的なものであり、必ず「滅ぶ」運命にあります。

また、「傲慢」であるため「学び」がなく、それゆえ同じ「過ち」を何度も繰り返すことになります。

 

「悪」は、こうした「愚かさ」の元にあるものであり、「学び」から遠い存在であること自体が「気の毒」とも言えます。

言ってみれば、「悪人」とは「可哀想」な人々であり、そのため「慈悲」の眼差しで向き合うべき存在なのです。

 

この「慈悲」とは「寛容な心」「見守る優しさ」であり、「」と言い換えることができます。

ゆえに、どれだけ許し難い「悪人」でも「愛する」ことはできるのです。

 

ただ、「悪」を見下げてはなりません。

自分が「もうやらない」と言えるようなことを反省もせず、彼らが延々とやり続けるように見えても、それは本当の意味では「愚か」なのではないということです。

彼らが同じことを繰り返すのは、一つの「課題」を履修するまで同じテーマと向き合っているだけであり、それは「学びの段階」に過ぎないのです。

 

人には「魂の成長」をするために、各々に向き合うべき「テーマ」があります。

その「学び」のペースは、その人が「自分で決めてやるもの」であって、実は他人がとやかく言えるようなものではありません。

 

つまり「同じ課題を繰り返す」のは、自分がまだ「理解」に及んでいないというだけのことです。

これは「知能の問題」に置き換えるべきではなく、普通に「勉強」と考えれば、習得したいものほど重点的に取り組むのと同じです。

だから、この「反復練習」の理由を「愚かさ」に結びつけてはいけないのです。

 

全てが「学び」のために用意されたものであり、その過程を個人の能力と考えることなく、個人が主体的に選び取った「課題」であると考えれば、人間には本当の意味での「愚かさ」は存在しないことになります。

 

しかし「過ち」を繰り返し、「悪」を成せばなすほど、自分に返ってくる「結果」も大きくなることでしょう。

そのための「学び」とも言えるのですが、自分のした「悪」ほど大きな「代償」を伴うであろうことは、他人から見れば「気の毒」としか言いようがないのです。

 

その光景は、「学び」の必要がない人からすれば「愚かさ」に見えるかもしれませんが、実はこの部分こそ「尊重」しなければならないものです。

その人の学びを温かく「見守る」こと、これこそ「慈悲」と言えるでしょう。

 

こうして見れば、「良し悪し」などあってないようなものにも思えます。

私たちは、これこそ「正しい見方」であったと、いずれ「気づく」時が来るのかもしれません。

いや私たちはむしろ、その「学び」をするべきなのだと思います。

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