神が人を作り給えた時、予め人間を「神の存在を疑わないもの」として定義することもできたはずです。
そうすれば、天に唾を吐くような者は生まれず、今日のような「唯物主義」、それに伴う「金の世」にもなり得なかったでしょう。
この世界に存在するものは全て、「大神が許し給えるから存在する」と神示には語られています。
つまり、天は「神を唾棄する”自由”を人間にお与えになられた」とすら言えるのです。
なぜ神は、自ら命を与えたものたちに「冒涜」をお許しになられるのでしょうか。
それは、「神の存在を疑わない」という境地に至るまでの「信仰心」の段階として、「神の存在を信じない」という落差を「遊び」としてお与えになられたからだと思います。
つまり、「信仰心」を持つこと自体が「人間的成長」であり、「無神論」は「学びの状態」の一部と言えるのです。
この「落差」こそ「悪」と呼べるのですが、底知れぬ「地」があるからこそ登りうる、「天」への果てしない「道」の象徴かもしれません。
「神など存在しない」という見解がある時、それは「結論」ではなく「神の存在を学ぶ」一つの過程と捉えた方が良さそうです。
その「学び」が今生ではないとしても、人間が神に生み出された存在である以上、いつかは「神の存在を悟る」という宿命から逃れることはできないのでしょう。