日月神示「磐戸の巻・第十一帖」には、こうあります。
「心にメグリ積むと動物のイレモノとなるぞ、神のイレモノ、動物等に自由にされていて、それで誠の神の臣民と申されるのか、分からんと申してあまりであるぞ、ゴモクを吐き出せよ、その儘ままにしておくと段々大きくなって、始末出来ない事になって、終いには灰にするより手なくなるぞ」
いくら素直に生きようとしても、この世で上手く生活するために多少自分を曲げることは避けられません。
その時に折った「心」は、腹の底の見えない「ゴミ捨て場」に仕舞い込んでいくうちに、だんだん大きくなって悪さをし始めます。
私にとって「悪心」とは、「学び」のために必要な経験だったと今になって思います。
かつて、イーゼルより重いものを知らないような美術少年が、「人を殴る」ことすら経験しなければならなかったのは、決してただの間違いではなかったと今では言えるのです。
傷ついた分だけ人の痛みがわかり、失敗や恥の数だけ寛容さを持つことができました。
自分が「悪行」をなし、悪人と渡り合うことで「悪」を身をもって知り、ゆえに彼らの本質が手に取るようにわかるのです。
この「成長」があったからこそ、自分の積み重ねた罪穢れはただの過ちではなく、これからを生きる上での「糧」にもなります。
確かに「ゴモク」を腹に抱えないに越したことはありませんが、折れる経験をしないことにはまともな大人になることはできません。
大事なのは、抱え込んでしまった「闇」を放置せずに、きちんと向き合いながら「日の光」に当てていくことなのでしょう。
だからと言って「人それぞれ」の問題にすることなく、世に張り巡らされた「罠」のせいで不用意に傷つき、苦しみを抱えたままでいる人を増やさないためにも、私の経験を生かしていくべきだと思うのです。