日月神示「扶桑の巻・第十三帖」に、こうあります。
「三千年に一度と言う、二度とない結構な時が巡り来ているのであるぞ、(中略)
内にあるものを磨けば、外から響くものも磨かれた、穢れ無いものとなるのじゃ、中の自分を掃除しないで居ると、いつまで経っても、岩戸が開けていても岩戸は開けん」
日月神示は、しばしば「予言の書」という読み方をされてきました。
それ以上に、1945年から1961年までの間に「天の岩戸」が開いたことで、おそらく時を待たずに「地の岩戸」を開くことは、人間次第で可能だったのではないでしょうか。
「岩戸」にはいつでも開けるという性質があるのだとしたら、「心構え次第」という面が多分にあるのかもしれません。
神示がこの「心得」に万語を割いていることから、「身魂磨き」の実践をさし置いて「岩戸開き」の方法はないのだと思います。
ただし、人間にとって「変化」は無意識に避けたい性質があり、まして自分自身の「反省」や「改心」を意識的に行うことが難しいのは、容易に想像できます。
だからこそ、天之日月神様は「天地の引き上げ」の執行時期を伸ばしに延ばし、今日の状況に至ったと考えられるのです。
確かに、現在の世界を取り巻く状況は、忿懣やるかたないものに思えるかもしれません。
ただ、今あるものが「最善」である限り「改善」のきっかけは起こりえず、「悪」があるからこそ「改善」が促されるとも言えます。
台風や地震が「悪」とは見做されないように、「悪」とは社会に生ずる自然の摂理であり、後に乗り越えられるために存在するからこそ、その働きを憎むべきではありません。
日月神示とは、「宇宙」こそ「神」の顕れであると説くことで、「善悪」全ての事象を「汎神論」に内包させ、「悪」が悪とならない「善」の世界を切り拓く教えであるのだと思います。
地表を覆う「大木」はいずれ枯れ、朽ちて尽き果てるからこそ、その跡に新しい草木が芽吹きます。
もし大樹が「永遠」に常緑であったならば、かの地に他の生命が繁栄するきっかけは生まれないでしょう。
だからこそ、自ら「滅び」の運命に従い、新たな若木が生え揃う契機となってくれることで、むしろ朽ちゆく老木には感謝の意を向けるべきなのです。
そう考えるのは難しいかもしれませんが、人間の時間軸でものを見るのではなく、「永遠の立場」から俯瞰すれば、今の状況が理解しやすくなるかもしれません。