「世の中」を考える

我が国は、1990年代から経済低迷の憂き目に遭い、「余裕」のない社会構造に変化していきました。

商業的にも産業的にも「失敗」が許されない風潮は、そこで働く人たちのプレッシャーとなり、大人たちの間だけでなく新たに社会に加わった若者や、これから大人になる子供たちに対しても「結果」を求めるようになってしまいました。

 

こうして「余裕」を失った社会は、常に「完璧」でなければならないという脅迫観念を生み出し、成果を上げるために「能力」を過剰に重視するようになります。

しかし、全ての人に備わる個性や才能が「経済」において合理的に働くとは限らないため、各々が社会に要求される「ステータス」に添わなければ、社会の一員として軽視される状況を作り出してしまいました。

 

私は、これが現代日本の「生きづらさ」の原因であると思います。

世の中が「成功」だけを希求し「失敗」の一切を認めないことで、至る所に「欠点」を探し、その「悪いところ」を見つけて「他責」する、こうしたサイクルの中で息もつけないような雰囲気の社会にしてしまったのです。

 

「世の中を良くしよう」と思い、常に「悪」を見つけ「改善」しようとするあまり、本来なら「善悪」で持ち回るべきではないものまで「悪」の対象としてしまい、それを無くすことで世の中を「良くしよう」と考えます。

しかし大抵の場合、それが却って他人の欠点を論うだけの行為となってしまい、自分の観念を押しつけるだけでは「改善行為」そのものがポルノとなり、そこで終わってしまうことすらあります。

 

今の世は、人が成長する上で必要な「失敗」や試行錯誤、またイージーミスですら過剰に叱責することで、特に伸び盛りの子供や若者に対して理不尽と言えるほどのプレッシャーになっています。

こんな社会では、集団の「性質」としてやっていけない人が出てくるのも、致し方ないと言えるのではないでしょうか。

 

私は、この社会の「風潮」をまず変えていくのが先決だと思います。

そこに、「お金が」とか「社会的立場が」とか理屈をつけるから、「世の中を良くする」というアクションが「方便」で終わってしまうのです。

 

確かに、自分一人で始められることはたかが知れています。

しかし最初から「100万人」を変えようとするよりも、身の回りの数人に「余裕」を作ってあげるだけでも、自分の目に見える世界は確実に変わっていくでしょう。

 

今の日本人は、この数十年で「苦労」に苦労を重ねた人が本当に多いと思います。

だからこそ「失敗」を沢山経験したでしょうし、自身の体験から「学び」の大切さがわかるはずであり、それを自分以外の人に当てはめて考えて欲しいのです。

 

結果的に、人はどんな過ちを犯そうと、その失敗に「学び」、成長して「改善」なされたらそれで良いものなのではないでしょうか。

それこそが「弥栄」であり、そうした世にするには、人が生きるには十分な「余裕」を作ってあげること、それが今の世の中には大切なことだと思います。

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