「嘘」や「強弁」ほど世を支配する理由は、それらの言葉が「権威」から発せられ、同調した集団や勢力の「数」が公に可視化されるからです。
マスコミやメディアを通じた言説は「一般化」され、雑多な意見は、それぞれが少数意見であるため大してピックアップされず、埋没してないように見えてしまうのです。
そうして作られた「常識」は、ロジックを編み出した人々にとって都合の良い状況を作り出し、また「隠れ蓑」にもなります。
「多くの人がそう思っているし、やっている」という言葉の魔力によって、真実でもないし正しくもないメッセージが世を動かす強弁に変わるのです。
この意見に違和感を抱き、反対意見を持ち続けるのはそれだけで難しいものです。
まして、100人中99人が「間違いない」と言うことに対して、自分1人で論陣を張るのは「蛮勇」ですらあるかもしれません。
自分以外の殆どの人が見て信じる事柄の「向こう」に、自分が見えた「目に見えないもの」を信じることを「信念」と呼びます。
例えば、誰もが「神はいない」と言う中で、自分だけ神を信じるのはとても勇気がいることです。
けれど、「誰もが否定する」先に真実を見ること、その信念を持ち続けられるかに信仰上の「試練」があり、もし真実がこの逆境を乗り越えた先にしかないのであれば、最後まで貫くしかありません。
人が生み出した「強弁」は、少し裏返しただけで大なり小なり矛盾が見えるものです。
また誰もが信じきっているからこそ、疑いに掛かったり検証されないことすらあります。
そんな脆弱な「一般論」を、人々は不動の真実であるかのように錯覚してしまうのです。
果たして、これが永久に「裏返らない」ことなどあるでしょうか。
「嘘」や「強弁」は自分の意思の強さを試す「試金石」です。
また「信じる心」は、真実が明らかになる時まで自分を貫けるかを試すのです。