私がよく引き合いに出す「借銭」とは、平たく言えば「負のカルマ」のことですが、厳密には「巡り=因縁」そのものと言えます。
日月神示「月光の巻・第四十四帖」には、「借銭済まし」について的確に表現した文章があります。
「この道に入ると、損をしたり病気になったり、怪我をしたりする事がよくあるなれど、それは大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、その借銭の清算をさせられているのじゃ、借りたものは返さねばならん道理じゃ、損も良い、病気も良いぞと申してあろうが」
私は「日月神示」を読み始めてから、実際にガチの怪我や病気が身に降りかかり、「借銭返し」のターンを本気で経験しました。
この体験は「招神万来」でリアルタイムで綴っていますが、読者の方はまさに同じ状況を辿っておられる最中かもしれません。
神示「地つ巻・第八帖」では「借銭」について、こう言及されています。
「祓いせよと申してある事は、何もかも借銭無しにする事ぞ、借銭なしとはメグリなくする事ぞ、昔からの借銭は誰にでもあるのだぞ、それを払ってしまうまでは誰でも苦しむのぞ、人ばかりでないぞ、家ばかりでないぞ、国には国の借銭あるぞ、世界中の借銭なしはどうしても大望であるぞ、今度の世界中の戦は世界の借銭無しぞ、世界の大祓いぞ」
この「メグリ」というのが、仏教で言う「業(カルマ)」に当たるのですが、あらゆる「因果」の中でも特に「天に対するもの」であり、「神」だけでなく「幽界の者たち」との間にもある「巡り」と言えます。
「身魂磨き」が腹の中の「ゴモク」を掃除することにあるのも、「幽界との因縁を断つ」という意味合いを含むからです。
この「幽界との因縁」こそ、「借銭」そのものと呼ぶことができます。
なぜ「幽界」との繋がりが天に対する「負債」になるかと言えば、「幽界」は人間の「我」の曲がった念によって作り出された霊界だからです。
そこで「我良し」になるから、「悪」を行い「我」で得するたびに、天へ対する「借銭」を負うことになるのです。
ただし天の「銀行」のシステムは、私たちが思うほど単純ではないかもしれません。
「五葉の巻・第四帖」には、こうあります。
「お尻を出したらキレイに拭いてやれよ、怒ってはならん、お尻を出されるには出されるだけの、何かの原因が己の中にあるのであるぞ、利子は後からでよいと申すが先に払う事もあるぞ、先にお尻を拭いてやらねばならん事もあるぞ、世が迫って岩戸が開いたのであるから、先にお尻を拭く事も出て来るぞ、思わぬお尻、持ち込まれる事もあるなれど怒ってはならん、気持ち良く拭いてやれよ、やがては神がそなたのお尻を拭いて下さるぞよ」
私が思うに、人間は「財産」というものを一切持つことはできず、常に天から「借金」をするしかない存在なのかもしれません。
「借銭」を済ませば「善行」は「富」となって蓄積され始めるはずですが、天から見れば「他人のお尻を拭く」ような善行ですら「利子を先に払う」という扱いになっています。
「利子を先に払う」ということは、「借り入れ」の目処が立ち、いずれ「元本」の返済が始まるということです。
また「利子」の払い金の中に未来の「元本」が組み入れられているとしたら、その間は「稼いでいる」訳ではなく、ひたすら「借金」をしているだけです。
こう考えると、人間は「無一文」になることはできても、「借銭」をせずに暮らすことはできないように思います。
「借銭済まし」と言ったところで、ローンで「1000万円の借金」をするか、翌日払いで「1万円の借金」をするかという違いだけで、ここまで来ると「どちらが心理的に楽か」というだけの話です。
おそらく、「天国人のような暮らし」を望んだ人は、できるだけ天に利子をつけない生き方を選んだ人たちなのでしょう。
債務を抱えて羽振りのいい暮らしをするのも一つの生き方ですが、「借金返済」の悩みを減らすことを考えた方が、確かに平穏には暮らせるかもしれません。
そうなるように「巡り」を清算していこう、というのが神示に言う「借銭済まし」なのだと思います。