私たちは一般的に、神様を「悪いことから身を守り、幸福に導いて下さる”善”の存在」と考えます。
また「禍事」や「悪事」をもたらす存在を「邪気」や「悪魔」と称し、「神」に対をなす悪の存在とみなします。
基本的にその解釈に間違いはないのですが、大事なのは「神々」の上位に「大神」という御存在がおられるということです。
日月神示「黄金の巻・第三十帖」からです。
「道知るのみでは何もならん、道を味わえよ、歩めよ、大神の道には正邪無いぞ、善悪無いぞ、人の世に映って正と見え邪と見えるのじゃ、人の道へ映る時は曇っただけのレンズ通すのじゃ、レンズ通してものを見ると逆立ちするぞ、神に善と悪あるように人の心に映るのじゃ、
レンズ外せよ、レンズ外すとは神示読むことぞ、無き地獄、人が生むぞ、罪ぞ、曲がりぞ、今までは影の守護であったが、岩戸ひらいて表の守護となり、裏表揃った守護になったら誠の守護ぞ、悪も善も、もう隠れるところ無くなるぞ」
「禍事」を司る「悪神」をお生みになられたのが「大神」である以上、「悪神」を統括する「大神」こそ真の「悪の総大将」とも呼べるでしょう。
ただ、これは人間が「善悪」という次元に落とし込んだから見える写像であって、「神」には本来「善悪」は存在しないのです。
ならば大神の「表の守護」とは、どういうことでしょうか。
「黒鉄の巻・第十六帖」からです。
「いよいよ表の守護と相成ったぞ、表の守護とは、良いものもなく悪いものもなく、ただ喜びのみの守護となる事じゃ、悪いもの悪くなるのは表の守護でないぞ、心得なされよ、
一つの魂を得ることは一つの世界を得ることじゃ、人間は一人でないぞ、神は善人の中にも悪人の中にも呼吸しているぞ、悪なくては生きて行けん、悪は悪でないぞ、外道の悪が悪であるぞ」
神に「善も悪もない」ということは、「善の神々」より上位におられる「大神」の御心次第では、「禍事」も引き起こされるということです。
これは「凶事をもたらすのは闇の存在であり、光の存在は幸福を与える」という、私たちの一般的な先入観を揺るがすものです。
では、なぜ「大神」は「悪」を司り、世に「禍事」が起こることをお許しになり、また悪の趨勢を止めることもないのでしょうか。
それは単に、「悪」は「神の歓喜」の現れであり、「悪の自由」も保証するからです。
そして「悪」がもたらす「禍事」を通して、「善」を志向する人々が「悪」を学び「禍事」を乗り越え、「改善」に向かうことを「神の道」とするのです。
「悪を許す」という立場そのものが「善」でなければ成立しないため、「大神」が「善の最高神」であることは疑いえません。
ゆえに、「大神」は特に「善悪」を超越した「善の神」と言えるのです。
この「絶えざる改善の道」こそ「弥栄」というあり方であり、ゆえに「悪を抱き参らせよ」と神示では述べられるのでしょう。
「悪」も「神の一面」であり、「裏」の顔でもあるけれども、その限りではないということです。
私たち、人間の目に「神」は見えません。
まして「霊界」や「神界」のことは見当もつかず、身の回りの出来事を自分で解釈するしかありません。
そのため「良いこと」を「神」にお願いし、「悪いこと」は「神」に頼んで祓ってもらおう、と人は考えました。
しかし「大神」が人々を真の「幸福」や「弥栄」に導くならば、「禍事」を起こすことも一つの過程であり、また神の導きなのです。
神を「善良なだけの存在」と考え、「福をもたらす」と想像する限り、大神を元とした「神の本質」には気づけないでしょう。
人間は命が短く、視界も小さいので「全体」を見渡すことが極めて困難です。
ゆえに、目の前の出来事に一喜一憂してしまうのですが、そこに「神」の一面ではなく「大神」の御心を知ろうとすれば、今起きていることが決して単純なものではないことを理解できるはずです。