人が働く時、対価を求めるのは一重に「やりたくない」からです。
人に何か物事を頼む時、何かをしてもらったお礼というより「迷惑料」としてお金を払う意味もあります。
何か物事を成し遂げようとして、一つひとつ積み上げて何も得られなかった時、人は失望します。
自分の努力が「実る」ことを願い、積み上げることを「苦」と思うからこそ、実らなかった時のショックは大きいはずです。
「中今」とは、常に「ゼロ」であるということです。
昨日、今日増やした「1」が、明日の朝には「0」に戻って、その日積み上げた「1」は眠りにつくとまた「0」に戻ります。
「中今」とは過去を積み上げないということであり、常に現時点が「始まり」であり、得たものはすぐに消えていきます。
だからこそ、結果や成果ではなく「行為」そのものを目的とすることができるのです。
その行為を続けるなら、何の意味も感じないような行動ほど習慣化することは困難になるでしょう。
それでも、実際にやったことは実績となり、身につき実力となっていきます。
そうして手元に残ったものは、決して嘘をつかないのです。
常に「0」であっても構わない、いずれ「1」が「0」になっても続けられる、そんな気持ちこそ真の情熱であり、「中今」を生きるということです。
何も得られずとも常に目的は達成されている、その行為に「愛」が宿り、生き甲斐となるのではないでしょうか。