「日月の民」

日月神示「雨の巻・第二帖」からです。

天の太神様は慈悲深くて、何んな偉い臣民にも底知れぬし、地の大神様は力あり過ぎて、人民には手に負えん見当取れん、そこで神々様をこの世から追い出して、悪神の云うこと聞く人民許ばかりとなっていたのであるぞ」

 

「天の太神様」とは、私たち日本人から見ると「伊奘冉命」として御存在を捉えることができます。

「地の太神様」は言わずもがな「伊弉諾命」ですが、ここでの御神格は「素戔嗚命」とも呼べるでしょう。

 

二柱神を「太神」とする時、厳密には「豊雲野大神」と「国常立大神」に当たるのですが、「大神」としての御存在を人間が認識する際には、「神」として引き下げられた段階で御顕現なされるようなのです。

 

あくまで私の印象ですが、伊奘冉様は何でも「いいよいいよ!」と仰るくらい、底抜けに寛容すぎて、如何なる「悪」に対しても優しすぎるのかもしれません。

伊弉諾様は、日月神示の文章そのままのイメージのお方で、「子」である人間に対して厳格な「父」としての態度で御指導なされるため、人間からすればかなり厳しく感じられるのでしょう。

 

どちらの太神様も「底知れぬ」と感じるほど、人間のスケールを遥かに超えた価値観で物事を動かされるため、私たち人間には見当がつかないように思えてしまうはずです。

二柱の太神様の御力はそれほど強大であるため、夫婦神の間を取りもち、人間に寄り添うスタンスの強い御子神の「撞賢木向津姫命」は、人間から見れば「心のオアシス」そのものだったのかもしれません。

 

「天の太神様」が「寛容さ」の象徴であり、「地の太神様」が「厳格さ」として人の心に映るならば、確かに人からすれば矛盾したものに思えるでしょう。

ただ、ここでの「寛容さ」は「他人」に対してであり、「厳格さ」を「自分」に対して向けるべきとするなら、そのあり方は「神の道」に通ずるはずです。

 

「自分には甘く、他人には厳しい」という姿勢が今の世に蔓延しているからこそ、息をするのも苦しい社会を作り出してはいないでしょうか。

ゆえの「闇の世」とも言えるのですが、「神の道」に準ずる「日月の民」は、天のように他者に寛容であり、地のように己に厳格であるべきなのです。

 

この実践こそ「一二三」であり、「自分は自分、他人は他人」という信念を貫くことが「祓い清め=神の道」なのだと思います。

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