「改心」について

「改心」と言うと、確実に煙たがれるのを承知でお伝えしてきたつもりですが、日月神示「キの巻・第八帖」には、こうあります。

「なるほど、今までして来た事が天地の神の心に背いていると言うことが心から分かって、心からお詫びして改心すれば、この先末代、身魂を構うぞ、借銭負っている身魂は、この世には置いて貰えない事に、規則定まったのだぞ」

 

ただし「恐ろしくなっての改心では御用は難しいぞ(雨の巻・第十三帖)」ともあります。

この「天地の神の心に背く行為」こそ、私たちが普段の生活でしてきた、むしろ「人として」当たり前の行為なのですが、「神の道」を閉ざされた人の世にあっては、「神の御心」に反していることに気づけないのです。

 

一体、自分の何がいけないんだ」と思われるのが普通だと思います。

ただし、「自分は何も悪いことをしていない」という人間の思い込みこそ、世を構いし天から見れば「慢心」であり、わからないのも「身魂が曇っているから」と仰るのです。

 

あえて「何が悪いのか」を指摘するならば、人間が「自分のもの」と思う全ては、神々が与え給われた「神のもの」であり、厳密に言えば人間の「身魂」ですら大神の「分御霊(わけみたま)」であり、本来なら「自分のもの」は一切ないのです。

 

ここが「取り違え」であると、日月神示では語られているのです。

なかなか耳の痛い話ではあるのですが、天が与え給われたものを「自分のもの」と信じるくらいならともかく、「他人のもの」まで奪って「争い」まで始めてしまうのは、神の御旨に反するものであると直感的に理解できるのではないでしょうか。

 

そして、「青葉の巻・第十八帖」では、こう述べられます。

改心とは阿呆あほになることだぞ、世界中の阿呆中々じゃ、中々アホになれまいがな、世界中の人民に言って聞かして、改心さすのではキリがないから、大変を致さなならんのだぞ」

 

この「阿呆になる」というのが、「身魂磨き」の究極的な理想の姿なのです。

仏教では「行雲流水」の心を美徳としますが、これは「我欲」を捨て命を捨て、全てを「仏」に委ねる信仰的境地と言われます。

 

「無」になることを仏教は目指すのですが、船の舵を手放すように「神に身を委ねる」ことこそ、「阿呆になる」ということです。

この心境こそ「神懸かり」への入り口であり、「神人」への道と言えるでしょう。

 

そうなるために、「物心」をもつ人間の感性のままでは「神の御心」を知るのは難しいのです。

だからこそ、自分のしてきたことの意味を知り、その行為を省みることで「神心」に近づく必要があります。

 

「黒鉄の巻・第十一帖」では、こう述べられています。

人間は罪の子でないぞ、喜びの子ぞ、神の子ぞ、神の子なればこそ悔い改めねばならんぞ、真なき愛の道、悲しみの喜びからも生まれる事あるぞ、それは罪の子と申すのであるぞ」

 

私たちがしてきた「過ち」は、決して天に対する「罪」ではなく、「弥栄」に至る「学び」の一部として、「成長」に変えるためにあるということだと思います。

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