日月神示では、「神は怒ったら神の座から外れてしまう」と語られています。
岡本天明翁が「耳」に聞いて書いたとされる「地震の巻」では、神が善も悪も等価、「歓喜」として捉えていることがわかります。
しかし、神々がそれでも「悪」を勧奨なされないのには、理由がある気がします。
「天之日月神」こと伊弉諾命は、「風の巻・第八帖」の中で「人民には一日も出来そうにない行の、三千年は相当のものだぞ」と述べられています。
私はやはり、神様ですら人間の悪行を直視し、この世の隅々まで祓い清めていく「御神業」は「苦行」なのだと思います。
悪人の残虐非道をつぶさに見ながら、ひたすら怒りを抑え「許す」という行に徹する三千年こそ、神々にとって明白な修行期間だったのかもしれません。
私の印象でも、神様は悪人が怒りの対象ではないにせよ、どちらかというと「お嫌い」であられるのは間違いないと思います。
それでも「悪」をこの世から消し去ろうとなさらないのは、例えば「ウンコ」が臭いし汚いのと同様で、私たち人間もウンコが臭いからと言って腹を立てないのと同様でしょう。
そもそも「ウンコ」は臭いものであり、それ自体どうこう言えるものでもありません。
だから神様方の感覚だと、人間の後ろをついて回ってトイレ掃除をひたすらやり続けるに等しい行だったのではないでしょうか。
伊弉諾命は、これを三千年続けたとされますから、大変なご苦労です。
同じように、私たち人間も「悪人」に対して「怒り」を抱かなければよく、別に「嫌い」であっても構わないのだと思います。
やはり悪は「必要悪」なだけで、横並びに手を取り合うべき相手でないことに変わりはありません。
「悪を抱き参らせよ」と、どちらかというと悪の肩を持ちがちな日月神示の教えですが、神々も一応「悪はお嫌い」という点を推し量れば、何となく神様方の御心情に近づけそうな気がします。