自分の「過去」に対する後悔は、「正解」がわかるからこそ抱くようになるものかもしれません。
自分の過去を振り返るならば、その不運や理不尽な出来事に対して、何の意味もないように思えるものです。
ただ、全ての出来事には「霊的な因果」が存在し、現世を生きる私たちには判然としないロジックが働いていたりします。
その出来事の「意味」は究極的には解明できないのでしょうが、生きる上での「説明」は一応つくようになっていると思います。
その一つひとつの事象には、まるで脈絡がないように思えてたとしても、実は深いところで繋がっていたりするものです。
この「意味」を知るには、個々の出来事を結びつけただけでは見えにくいものであり、大まかに捉えていく必要があります。
人の過去には、「今」だからこそ繰り返さないようなことばかりあるものですが、かつての自分の姿に「生き方」を必死に求める、「真摯さ」が垣間見えるはずです。
私たちの「後悔」は、自分の生き方がわからず、周囲に流されていたことや、「迷い」から生じたものであることが殆どです。
もしかしたら、今の「知見」を昔の自分が持っていたら避けられたかも知れず、「自分」らしく強かに生きられたら、上手くいっていたことばかりかもしれません。
ただし、人生がそうはならなかったことにも「理由」があるのです。
過去の「失敗」や「後悔」する出来事が、自分の人生にとって経験しておくべき事柄であったと、そうは考えられないでしょうか。
例えば、その「経験」が映画の伏線の一つであるならば、ストーリーの途中では全く意味がわかりません。
この「伏線」は、映画の佳境に入ってようやく繋がり始め、終わってみてから完全に理解できるものかもしれません。
「過去」を冷静に見つめてみると、「こんな辛い出来事に何の意味があったのか」「ただ不運だけが一方的に降ってきただけじゃないか」と思えることばかりです。
それが理不尽であればあるほど、今ではどうしようもないものほど、私たちの「苦しみ」は深くなっていきます。
ただ「苦しみ」が深いほど、この困難の果てに手にした「知見」は魂に刻まれ、「財産」として人生に活用され、死んでも残り続けるものとなるでしょう。
それは「霊の世界」においては、より高い次元に行くための「切符」であり、霊界に生きる人々が喉から手が出るほど欲しいものであり、これこそが本当の意味で「神様のお蔭」と言えるのです。
日月神示「黄金の巻・第十三帖」では、こう述べられています。
「苦しんで苦しんで、苦しみ抜いて得たことは楽に得たことじゃ、その楽に得たことのみ自分の身に付くのじゃ、血じゃ、肉じゃ」
「春の巻・第三十一帖」では、こうです。
「今の自分の環境がどんなであろうと、それは事実であるぞ、境遇に不足申すなよ、現在を足場として境遇を美化し、善化して進め、そこにこそ神の光、喜び現われるのじゃ、逃げ道つくれば、迷いの道に入るぞ、楽に得たもの、楽に失う」
それが本当に自分の求める「目的のもの」であったからこそ、わざわざ困難を通じて「得る」必要があったのではないでしょうか。
おそらく、それが「霊的な自分」にはわかっても、現実の世界で生きる私たちには見当もつかないものなのです。
ゆえに「答え」を求めない限り「不幸」を悔やむだけになってしまうのですが、そこに必ず「意義」があり、それを経験から見い出すことが大切なのだと思います。
私たちの世界は「学び」を求めない限り、どんな事象にも「意味がない」ものと感じてしまうようにできています。
そこに「法則性」を見つけ、何らかの「意思」が働いていることを知るならば、単なる「不幸」などどこにもなかったことに気づくはずです。