「サナギ」の時間

日月神示「梅の巻・第二十二帖」には、こうあります。

いくら時節来たとて、人民に誠ないと気の毒ばかりじゃ、気の毒この方嫌いじゃ、道は神にも曲げられん、竜神は悪神じゃと言う時来るぞ、心せよ、誠ない者、今にこの方拝む事出来んことになるぞ、この方に近よれんのは悪の守護神殿ぞ、

愈々いよいよ天の御先祖様と地の御先祖様と御一体に成りなされ、王の王の神で末代治める基もとをつくるぞ、少しでも混じり気あってはならんのじゃ、早く洗濯掃除結構ぞ、御用いくらでもあるぞ、お蔭は取り徳じゃ、出来るだけ大き器持ちて御座れよ、皆々欲がチビイぞ、欲が小さいなぁ、話すことは放すことじゃ、放すと掴めるぞ

 

ここ最近、「状況」の変化と「環境」の変化、「霊的」な変化が一斉に来て、「」が全く追いつかない状態が続いていました。

ただ一つ言えるのは、「これまで」同様にはいかないこと、仮にその変化に立ち会った時、「形」だけ一貫性を保つことが大事なのではないということです。

 

人は、これまでの「積み重ね」があるほど、作り上げたものに「こだわり」が生まれ、それをいざ捨てなくてはならない時、「基本」に戻ることは難しくなります。

私自身は、自分の歩みの上でゴチャゴチャ残してしまったものにこだわりはないのですが、それでも一度「手放し」をして、これから何を残して何を手にしていくか、冷静に見つめ直す時間が来ていたように思います。

 

そして、大抵のものは「大していらない」ことにも気づくのですが、だからと言って残さなくて良いものでもないでしょう。

その中で、またやむを得ず「掴まざるを得ないもの」はあり、何かを捨てた先に改めて「掴んでいくべきもの」も見えてくるのだと思います。

 

人は新しく何かを掴もうとする時、その先のことに「考え」は及んでも、「思い」に至るまでに時間がかかるものです。

こうした自由にならない時間というのも人には必要なのでしょうし、いっそのこと、心静かに「サナギ」の時間を過ごしてみるのも良いのかもしれません。

トップに戻る