「神人」と「現人神」

最近、私は自分のなすべきことに「これでいいのか」と戸惑いを感じていました。

 

「人として」どう見られたいかとか、自分の体裁を保つために世が都合よく動いてくれることを願う心が、いまいち取りきれない「我」となっていたのです。

むしろ、そうした「人としてどうか」という部分が、「神の道」を歩む上での妨げとなっていました。

 

当然、人間として抽象的になりすぎてしまうことへの恐れもあります。

そこまで突き詰めてしまうと、ますます人間社会で通用しなくなることへの不安があるからです。

 

しかし、心に神を宿す「神人」は、まだ「人」の範疇にあります。

神様は、ここまで来たら「神人」ではなく「現人神」になって欲しいのだと思います。

「もう一枚衣を脱げ」と。

 

そこまで到達することができてこそ「地之日月神」たりうるのかもしれません。

人間として抗えない存在でありながら「神」たろうとするには、確かに矛盾もあります。

 

しかし、「神の道」は突き詰めれば、そこまで行けるようになっているようなのです。

「人間を捨てる」ところまで神に促され、私はやはり、人として動揺を隠しきれない部分はあります。

「思い上がらない」

自分の才能は自分のものだと思い込んで、才能によって手にした全てのものは自分のものだと勘違いしがちです。

 

しかし才能の発露が「魂」から出るものだとすれば、その発想の源泉は「神」から来るものです。

神から与えられるエネルギーやインスピレーションは、どれだけ意地を張ろうと神様のものなのです。

 

「水道」に例えると、自分が蛇口として水を流しても、人が欲しがるのは「水」の方です。

「蛇口」自体は必要ですが、蛇口そのものを欲しがる人はいません。

あくまで、蛇口は水を出すために栓を開いたり閉じたりするだけです。

 

ただ人間はそれを勘違いして、蛇口から出る水は全部自分のものだ、と言いたがります。

そして、捻り出した水の対価も全て自分の懐に入るべきだと考えます。

 

ここで決して思い上がらず、「蛇口」に徹するくらい無欲でありたいものです。

どっちみち蛇口は、水を吐いたり止めたりすることでしか成り立たないからです。

「賢さ」の意味

いつからか、悲観的であることが「賢さ」だと思い込んでいた気がします。

 

今思えば若い頃、好きな人に嫌われても「きっとこれは好きの裏返しなんだ」と、逆に恋心を膨らませていた能天気さは、かえって逆境を生きる上での「賢さ」だったのかもしれません。

 

何の根拠がなくても何となく明るい、問題はあるけど大して深刻にはならない、それほど真面目すぎないことも一種の「賢さ」なのだろうと思います。

 

最近、声を掛け合う人皆が、何となく優しく感じるのです。

それぞれ色々ある中で、何故か悲壮感を感じる人がいません。

 

この不思議な感覚が私だけのものなのかわかりませんが、これが日本人特有の「明るさ」なのだとしたら、我が国の未来が暗いはずがないでしょう。

この「明るさ」に引き寄せられて、良い未来が訪れるのだと思います。

 

「賢さ」がより良く生きる知恵だとしたら、無闇に明るくあろうとするのも知恵なのではないでしょうか。

「天国人」と「幽国人」

高い波長を持つ霊界を「天国」とするなら、低い波長域に住む霊人を「幽国人」と呼ぶことができます。

 

「天国人」は、輪廻の一環として地上に生まれ落ちる時、現世の「常識」にまず面食らいます。

現代は幽界の影響が濃いため、幽国人のロジックで文明がほぼ成り立っているからです。

 

天国人からすると、幽国人の「常識」はまるで真逆の価値観です。

幽国の人々は「方便」を好み、権威や建前だけで通用する文化を大事にします。

 

日月神示では、これを「幽界魂」とし、「◉」の状態が「◯」の形質となった霊人を指します。

天国人が全く彼らと異質かと言うと、決してそうでもなく、どんな状態の身魂であっても時と場合によって「◯」となり、幽界魂となり得るのです。

 

また、逆に身魂を磨けば「◯」の状態も「◉」の完全なる姿に戻ることができます。

これが「身魂磨き」であり、本来の神の性質を取り戻すにつれて、霊人が上がっていける霊界の波長域は高まり、「天国」の霊域に近づいていきます。

 

これが現世を通して行われる「修行」の意味であり、この実践こそが「神の道」に当たります。

霊人は、より良い場所に住むために出世競争をしていると言っても過言ではありません。

 

しかし、例えば豪邸に住みたいと思って努力する人もいれば、今いる家にずっと暮らしたいという人もいるし、そろそろ家が古くなったから引っ越そうと思う人などそれぞれがいるように、霊人の「修行」によるスタンスの違いが、霊界の多様性を生み出しているとも言えるのです。

「たぢから男神」

「HARAEDO」に近日登場予定の、「天手力男神」こと「たぢから男の神」のイラストが完成しました。

 

たぢから先生は、後日投稿する祓戸劇場「パワー!!」の巻でお目見えする予定です。

どうぞお楽しみに。

「桃栗3年」

私が言う「精神界」という高い波長域の気場は、抽象的なエネルギーが強すぎて、なかなか具現化しにくいという特性があります。

下手すると「理念」を語って終わることになりかねないくらい、身体に落とし込んでいくのは難しいエネルギーなのです。

 

そこで各人の「才能」が、実地に生かすための媒介となります。

「才能」はあると思っているだけでは駄目で、才能を活かすにもそれなりの知見と技術が必要です。

 

「才能」は、自分が望むに関わらず予め各自に備わっています。

その才能を「選り好み」するせいで、人はなかなか自分の秘められた能力に気づくことはできません。

 

ただ、自分の生まれ持ったセンスに気づいてからは早いのです。

どんな技術でも習得に3年かければ、かなりの水準に達します。

その3年の間に世は移り変わり、才能を使って何ができるかも変わってくるでしょう。

 

そして2029年、この国を、地球の未来を塞いでいた大岩は、人間の身体の力でこじ開けられるのです。

その才能に「神」が宿る、これが「一厘の仕組み」の鍵なのだと思います。

「絵描いて皆にやれよ」

今「奥山」にいる人々が各々に動き始めたのは、やはり間違いないように思います。

おそらく奥山におられる方々には「招神万来」を通して、伝えるべきことを一応伝えきった、ということなのかもしれません。

 

それは私にも自覚できなかったことなので、急に「自分のことをやれ」ということになると、戸惑う気持ちになったのだと思います。

 

これまで、前だけを向いてがむしゃらにやってきたので、やり散らかしたこともたくさんあります。

けれど、やはり神示にあるように「天明は画家となれ、絵描いて皆にやれよ(梅の巻)」と、私の本来の仕事を通して「一二三」を伝えていくことが御神業、という段階に入ったのかもしれません。

 

こうして自分の生業に戻ると気になるのが「評価」ですが、しばらくはそんなことを気にせず、自由にやりたいと思います。

 

大事なのは「気持ち」、その時勢はまだまだ続くでしょう。

おそらく、しばらくの間はそれで良いのだと思います。

種蒔きと「旅立ち」

3月20日の春分から劇的にテーマが変わり、その勢いに私自身がついて行けていない状態です。

 

これまで、私は「導き」というテーマに基づいて行動していましたが、これを期に「自分のこと」を考えるようになりました。

ただ、この切り替わりに頭がついていかず、今だに「これで良いのか」と自問自答することもあります。

 

「奥山」の霊団にいた人々も、それぞれに「独立」の心境にあるように思います。

芽が出て実がなるのが3年後だとしたら、今は「種蒔き」の時期なのでしょう。

 

そう感じるのは、気場の様子を見ていると、かなり動きが出てきたように思うからです。

 

「才能」と自らの思想を武器に、既存の枠組みを超えるための実験が始まっているのではないでしょうか。

これをやって、どう身を立てて行こうか」という試みと言えるかもしれません。

 

今の日本の商売のやり方が間違っている訳ではないのですが、今はどんな商いも時勢が良くありません。

そんな中、「ダメ元」でやるからこそ、面白い結果に結びつくのかもしれません。

 

日本の戦後復興期には、モノがない中で「才能」と「情熱」だけで我が国は世界有数の経済大国に成長したのですから、まだモノがあるだけ、チャンスは転がっているのではないでしょうか。

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