「運命」を変える方法

日月神示「黄金の巻・第八十七帖」には、こうあります。

「誠に改心が出来たと神が見届けたら、今度はこの世はもとより、何の心配もない様に守って肉体、顔まで変えてやるぞ、宿命と運命は同じでない、磨けばどんなにでも光るぞ、放っておいても神に背く者は自滅して行き、従う者は弥栄えて行くぞ、そこに神の能はたらきあるぞ、良く悟って下されよ、人間の処理方法と神の処理方法と融合せねばならん

 

もし「天の咎」を負うことが「降誕人」の宿命なら、地上に生まれる前から理不尽な目や、辛い経験をすることは避けられなかったかもしれません。

しかし、「運命」が自分で切り拓けるものだとしたら、どんなに逆風が吹きがちな人生であっても、自分の求める「幸福」は必ず得られるはずです。

 

そのためには、自分の力(自力)だけで何事も乗り越えようとするのではなく、「他力」すなわち「神の能き」を知り、神に身を委ねて生きていくことが大切です。

そこで「人間としての自分」、つまり「我」を出すことなく、その都度「神の処理方法」を採用する必要があるということです。

 

「神の処理方法」について、「春の巻・第十六帖」にこう書かれています。

風吹けば、風を一先ず甘受せよ、甘受した後、処理して行かなければならん、受け入れずにハネ返すのは大怪我のもと、何回でも何回でも、同じこと繰り返さねばならん事になるぞ、何か迫り来るのは、何か迫り来るものが自分の中にあるからぞ、内にあるから外から迫るのじゃ、自分で呼び寄せているのじゃ、苦しみの神、因果の神を呼んでおいて、不足申している者多いのう」

 

「内にあるから外から迫る」というのは、「引き寄せの法則」と言えば一言で伝わると思います。

それは「内の自分」が「神」の性質を持つからであり、身魂の質が変わらない以上、内の自分が招き寄せる事象の性質も変わらないということです。

 

ゆえに「身魂磨き」が求められるのですが、「一先ず甘受する」ことについて、「春の巻・第三十六帖」では、こうあります。

何事に向かっても先ず感謝せよ、ありがたいと思え、始めはマネゴトでもよいぞ、道は感謝からぞ、結構と思え、幸いと思え、そこに神の力加わるぞ、不足申せば不足うつるぞ、心のままとくどく申してあろうが、病気でないと思え、弥栄と思え、病治るモト生まれるぞ、キがもとぞ、何事来るとも何クソと思え、神の力加わるぞ、恐れは恐れ生むぞと申してあろうが」

 

まず、どんなことが起きても目の前の出来事に「感謝」し、それを受け容れることが「神の処理方法」の始めと言えるでしょう。

言葉では簡単に述べることはできますが、実際にやると困難極まるものであることは、容易に想像できます。

 

例えば「泥まんじゅう」を顔に押しつけられて、ありがたく召し上がるようなことは普通の人にはできません。

しかし「神の処理方法」で考えたら、感謝して食べる「泥まんじゅう」も、心次第では「ご馳走」ということになります。

 

そうは言っても、やはり直感的に納得できるものではありません。

ただ、こう考えることはできます。

捨てるはずの「大根の葉っぱ」も、自分の腕次第で絶品料理に変えることは可能です。

 

私たちは、目の前に起こる良くない出来事は、瞬時に「悪いもの」と捉え、それ以外の考え方をすることはあまりありません。

それだけではなく、「一時的」に不利な状況になっただけで、結果から見れば「一つの過程」にすぎないことだって沢山あります。

 

決して「一面」だけでは捉えない、こうした「俯瞰的な見方」こそ「神の処理方法」であり、「永遠の立場」からものを見る方法と言えます。

私たち人間は命が短いため、少しの時間でも勿体なく感じ、すぐに「結果」を求めて早急に結論を出してしまいます。

だからこそ「神の御心」を知り、その考え方を学ぶことは、私たち人間が「運命」を切り拓き、「弥栄」に生きるために重要な意味を持つのです。

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