「懺悔」と「感謝」

今、個人的に天からの「大掃除」が進んでおり、まるで「禅寺」で一人修行しているかのような気持ちさえ覚えています。

 

人は思うより「我とはわからない我」に囚われており、これまでそうした「未熟さ」は、天から「大目に見て頂いていただけ」であったことが痛いほどわかりました。

「我の罠」とは、自分が真剣に改善に取り組んでいるからこそ、努力への「自負」が「買い被り」に繋がってしまう、恐るべき「慢心」です。

 

日月神示「月光の巻・第五十九帖」には、こう書かれています。

「そなたは動機が善ならば失敗は薬と、我われの都合の良い様に、我われと我を弁解して御座るなれど、弁解したのでは薬にならん、毒となる事あるぞ、省りみよ

 

宇宙の本質も、人生の目的も「成長」にあるのだとしたら、「成長できるのは良いこと」と考えて行ったことの失敗も、まるで「良いこと」のように錯覚してしまいます。

しかし、天から見れば「弁解するくらいなら、最初から失敗するようなことをするべきではない」と、それこそ道理であると仰りたいのだと思います。

 

ただ、この「正論」は人間にはあまりに「劇薬」すぎる「薬」のため、苦すぎて飲み込むことが難しい代物です。

そうは言っても、それほど上手くはいかないもんでしょうよ、神様」と、口答えしたくなるほどです。

だからこそ、ここに「我」が潜み、「慢心」が首をもたげて成長の邪魔になっていたりするのです。

 

こうした「我とわからない我」と向き合う行為は、まるでお寺で精神修養でも行なっているかのようです。

ただ神に頭を下げつつ、自身の身の丈を見つめる作業は、世界中の宗教のあり方に通じている気がします。

 

人間は「神」の御前で至らぬ行動にあったことを「懺悔」し、それが天の「慈悲」で許され、また生かされていることに「感謝」する、こうした理念は世界中に見られます。

この「神と人」の構図が、あらゆる宗教形態に普遍的に見られることは、「真実=誠」の証左なのではないでしょうか。

 

「神の道」とは、あらゆる宗教を貫く「理(みち)」、いわゆる「理論」です。

だからこそ、理論通りにやれば他の宗教に似通ってくるのは、宗教的生活こそ、神の理の「実践」であるからであり、それは「一二三(ひふみ)」であっても同様なのでしょう。

 

人間はどうやっても最初から完璧にこなすことは不可能ですし、ずっと謙虚であり続けるのも難しいことです。

だからこそ、自分の身の丈に対する「懺悔」と「感謝」の気持ちは、過ぎるほど持っていても足りないのだと思います。

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