「不動の心」

昨今の状況を見るに、やはり「悪神」の御力は絶大と感服せざるを得ません。

元々「天」の性質が強い善良な人でも、今では「社会的立場」や「人としての道理」に流されて、知らずのうちに「」の側に回っているように見えます。

 

もちろん、彼らはこの判断が「正しい」と確信しているでしょうし、今の社会では「ヒューマニズム」として通うような理想論です。

ただ、人間としては「正しい」考えが、「天」から見て正しいとは限らないのです。

 

どう見ても、私の主張が「不利」に傾く一方のように思えますが、逆に不利になるほど「日月神示」の通りになっていくと言え、私の主張も一貫性を帯びてきます。

「悪神」の御力が存在感を示すほど「神」という存在は際立ち、人々が「悪」の側に回るほど、「日月神示」の予言への信憑性は高まっていくのです。

 

最近、世に起こることに「実はこういうことなんだよ」と注釈を入れなくても、遠目から見れば大体わかるようになってきていますし、私が詳しく説明しなくても「いずれはそうなる」と言って差し支えないことに、確信が持てるようになってきました。

ただ、これを人にわかるように伝えるのが難しいことは認めますし、こうした言い回しが弁解じみたものに思えてしまうも承知しています。

 

私が言えるのは、「ますます自分の主張に確信が持てるようになった」ということです。

「神の導き」を自分の中に強く感じるからこそ、世に正反対のことが起きても「予想通り」であり、かえって自信に変わるのです。

これを言うなれば、「不動の心」と表現できるかもしれません。

 

日月神示「磐戸の巻・第十九帖」には、こうあります。

 

「向こうの国にいくら物や人があっても、生神が表に出て働くのだから神無き国はいずれは往生だぞ、この神の申す事よく肚はらに入れて、もうかなわんと申す所を堪こらえて、またかなわんと申す所を堪えて、いよいよどうにもならんという所を堪えて頑張って下されよ、神には何もかもよく分かって帳面に書きとめてあるから、どこまでも死んでも頑張って下されよ、そこまで見届けねば、この方の役目果たせんのぞ、

可哀想なれど神の臣民殿、堪えに堪えて、誠をどこまでも貫いて下されよ、誠の生神様がその時こそ表に出て、神の臣民と日本に手柄を立てさせて、神から篤く御礼申して善き世に致すのであるぞ、腹帯をしっかり締めてくれよ、重ねて神が臣民殿に頼むぞよ、守護神殿に頼むぞよ」

 

この御言葉を残された「天之日月神」こそ、我が国「日本」をお造りになられた「伊弉諾命」なのですから、何を躊躇う必要があるでしょうか。

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