現代では「スマホ」を使わずに生活することの方が難しくなっています。
けれど、このスマホが米国企業のたった「2社」に提供されているサービスだということを、今改めて考える段階に差し掛かったと言えます。
近ごろ経済の話題は避けていましたが、この意味がわかるようなニュースがそのうち飛び込んでくるはずです。
「スマホ」のOSや主要なアプリの殆どは、米国のハイテク企業に集中しています。
もしこれらが「無くなる」未来があるとすれば、資本規模や市場シェアや人々の依存度から、誰しも「あり得ない」と言うでしょう。
「これだけ多くの人が使っているのだから、米国企業はコケてもスマホはなくならない」と、その意見もわかります。
しかし、この巨大なプラットフォームを管理する大企業が、大規模な市場から莫大なマージンを吸収する仕組みであるにも関わらず、堅実な事業運営に繋がっていないとしたらどうでしょうか。
「巨大企業」だからこそ成り立つ「スマホ」というプラットフォームは、同じビジネスモデルを踏襲する限り「世界的大企業」でなければ運営できないでしょう。
新しくスマホ市場に進出する企業があるとすれば、これまでのAppleやGoogleと同じ事業路線を踏むことは困難になります。
そうした時、私たちはいつまで手元の「スマホ」を使い続けられるでしょうか。
「電話」や「カメラ」「CDプレーヤー」、「本」や「ゲーム機」などの機能をスマホが集約したことで、各業界は需要の移行を受けて衰退し、従来の産業構造は変化を余儀なくされました。
つまり、今はスマホを使わずに「同じことをやる」のが却って難しい状況になっていると言えます。
逆に言えば「スマホがやっていることを全く別のやり方に置き換えることは、産業としての広がりを持つには十分」ということです。
誰しも、未来もやっぱり「スマホ」にあると疑わない時だからこそ、「脱スマホ」にはとんでもないビジネスチャンスがあると私には思えてならないのです。