「風の時代」の意味

私が「霊団」という言葉を用いる時、所属する人々が実際に会話をしたり、面識ある関係であることは殆どないはずです。

わかりやすく言うと「ソウルグループ」での繋がり、霊的なコミュニティを指します。

 

こうした抽象度の高い繋がりを各々が持つ訳ですが、魂が似通うというニッチな出逢いは、現実的になかなか難しいと思います。

ただ、魂のレベルで繋がった相手は、普通の出逢いとは違って今生、来世にも渡って関わり続ける可能性が高いのです。

 

そうした「運命」の出逢いを求めて長い時間を旅する、それが「風の時代」の真意なのだと思います。

そして、目に見えない深い繋がりがテーマになる時代が、26日に訪れる「天王星双子座期」なのです。

 

「風の時代」の「風」とはエレメント的に「大気圏」の気流であり、地上に吹く風よりも高い波長域にあります。

この階層での「霊的交流」こそ、次の世を造る礎になるのだろうと思います。

心の灯

最近、自分の霊性に対する体感が変わってきたように思います。

それは、20代の頃に失ってしまった「胸」の熱源が戻ってきたという感覚です。

 

あの頃、私は朝8時半に出社して事務所を開け、上司が午後に出社してくるまで一人で業務を切り盛りし、23時半に事務所を閉め終電で帰宅するという生活をしていました。

当時はバイト扱いだったので、月8万円の固定費と土日に入る現場の手当を頼りにしており、それでも収入の殆どをコンビニの買い物で使い切るような日々でした。

 

こんな生活をしているうち、私の心は萎みきってしまい、胸の内に「情熱」を取り戻すまでずいぶん時間が掛かりました。

 

人間、心の弱い部分に「」というのは忍び寄るものです。

実は生まれつき霊性が高い人ほど、魔に対する感応も高くなってしまうのです。

私の上司は、そういう人でした。

 

「魔」というのは目に見えないため、どう見ても普通の人間である以上は、常識で考えながら非常識な人間を相手にしなくてはなりません。

しかし、霊的に見て「魔物化」した人間は、魔物そのものと言っても過言ではないのです。

 

彼らは人間の良い部分ほど台無しにしようと狙って近づき、大事なものほど集中的に潰そうとしてきます。

これほどの邪悪が日常に潜んでいるとは、どう考えても普通は気がつかないでしょう。

だからこそ、まんまと罠にハマる人が続出するのです。

 

こんな事象が蔓延しても誰も気づかないのが、「闇の世」たる所以です。

もうこんなことは散々と、心の傷を癒やして嫌な記憶も過去のものにするためには、こんな時代はさっさと終わらせるに限ります。

日本らしい文化

日本の伝統文化、日本人形や民謡などについて調べていると、古き良き日本文化とは「老人文化」なのではないかと思うようになりました。

江戸時代の「髷」も、若者が禿頭の老人と同様に見えるよう剃髪するスタイルです。

 

昔の人は、子供からお年寄りまで触れる文化は殆ど同じもので、「若者向け」と言える限定的な流行はなかったのではないでしょうか。

もちろん「最近の若い者は」と、大昔から言われてきたのかも知れませんが。

 

昨今の文化は、むしろ2000年代までの若者文化が高齢化してしまい、成熟しきった定番ジャンルとして残るだけになっている気がします。

若者文化は年長者のお下がりのようなブームに引きずられがちで、消費に旺盛なはずの若者たちよりも、往年のファンの買い支えの方が活発なのではないでしょうか。

 

この「若者文化の衰退」は、これまでの消費文化が若者向けに特化しすぎていたからではないかと感じます。

 

これからの時代、日本の文化の形をイメージするのに、江戸時代以前の消費文化が参考になるかもしれません。

老若男女、子供からお年寄りまで触れることができて、創作者も演者も年齢を問われないような文化です。

 

むしろ、こうした文化が日本人の心にしっくりくるような、末永く続く奥ゆかしいものになるのかもしれません。

今の「奥山」について

先ほど、不思議な夢を見ました。

私はフェリーに乗っていて、席が満杯のため船内の看護室に入って、看護師さんたちと談笑しながら渡航を待つという夢です。

 

おそらく、このフェリーに乗船した人々は私の所属する「霊団」の人々で、あるミッションを行なって帰船する途中でした。

夢の印象では大体50〜75名ほどで、老若男女は問わないのですが、中高年の方が多かったと思います。

 

最後にシートを人に譲ったため、船室に座れなかった私は、機関室に近い看護室で席を間借りさせてもらうことにしました。

看護師さんたちは5名の女性で、手練という印象でした。

おそらく、この方たちは「天使」と呼ばれる方たちだと思います。

 

私たちの霊団は、この数日の霊的なミッションを粗方終えたため、これからは別のフェーズに移ることになるはずです。

おそらく、「奥山」を天国同様の環境に整備していく、というプロジェクトが始まると思います。

 

実生活の面で言えば、より身の回りを「天国的」にしていく実践として現れることになるのではないでしょうか。

「自殺」してはいけない理由

なぜ「自殺」してはいけないのか。

それはこの世、私たちの生きる現世が「自殺するには値しない世界」だからです。

 

私たちが今いるこの世界は、魂が肉体を通して「修行」と「実験」をする場です。

人間の霊魂は、霊界に暮らす霊人たちと繋がっており、この世で肉体を通して彼らの代理として活動します。

 

人間は死んだら霊体となりますが、この世に未練や執着が強いと、思念体となって現世に留まります。

人間はこの世を唯一絶対だと思っているからこそ、現世を去ることが恐怖となります。

 

しかし現世が宇宙の一部であり、真の世界ではないことを知る時、現世にこだわる意味がそれほどないことに気づきます。

これが俗に「成仏」と呼ばれるものです。

 

私たちは生きる中で、不幸があったり失敗があったりします。

しかし、この世が唯一の現実ではなく「仮初」のものだと知れば、目の前の事象もまた絶対のものではありません。

 

この世界は、諸行の跡さえろくに残らない「使い捨て」の世界であり、自分の肉体も同様です。

これを大事に思うからこそ、なかなか現世を離れることができないのです。

 

もし「死にたい」と思う人がいたら、私はこういう話をしたいと思います。

この世は、自分で死ぬ価値があるほど大層に思う必要のないものだから、今から死ぬ気で生きてみなさい」と。

 

世の中や身の回りをめちゃくちゃにしてでも、人が幸せになる方法なんていくらでもあるからです。

「存在」の本質へ

「神に仇なす者たち」、俗に言う悪魔や悪神の心に触れる時、おぞましいほどの憎悪と冷たい心がそこにあるのを感じます。

 

もし、彼ら闇の者たちが「悪」という名の歓喜だとしたら、そこにある悪感情も「喜び」の表現なのでしょう。

どんな悲しみや憎悪も「歓喜」の現れであるという事実を知らなければ、「存在」というものの本質を掴むことはできないのかもしれません。

 

鳥や動物たちは、自らを取り巻く環境の過酷さや死の恐怖に直面しているからと言って、絶望して生命を断とうとはしません。

それどころか、生命を繋いでいるうちは「喜び」と捉え、だからこそ過酷な環境の中でも種を存続させ、広げようとするのでしょう。

 

生命とは、「存在」への歓喜そのものです。

 

「闇」の者たちも、例え破滅的であろうとも自己という存在に貪欲である以上は、生命の歓喜を謳歌しているのだと思います。

ただ、闇が栄えると光の存在はいずれ潰えてしまいます。

ゆえに「闇の世」が永劫に続いてはならず、その時代を終わらせるために「光」が必要となるのです。

 

この深い闇を切り拓くには、例えるならば太陽と月と宇宙の星々の光を集めたような、強烈な光でなくてはなりません。

その光は、おそらく「祈り」の強さそのものなのです。

僕が僕であるために

尾崎豊さんの作品に「僕が僕であるために」という曲があります。

この曲のメッセージは、普通に聴けば「自分であるために、大人との戦いで勝ち上がらなければいけない」という風に受け取れます。

 

けれど、私はこういう意味にも解釈できると思います。

自分であるために立ち向かうべき敵は「孤独」であり、「勝たなければならない」のは「自分自身」であるということです。

 

自分であるため大人や社会に反抗する以前に、まず「長いモノ」に巻かれたくなる自分の弱い心と戦わなければなりません。

勝利しても誰も褒めないような、何も得られないような戦いこそ「自分が自分であるため」の戦いであり、真の「勇気」を必要とするものです。

 

これこそ、日月神示にいう「戦」であり、内なる自分と向き合う「神の道」なのではないでしょうか。

この戦が「祓い清め」であり、自分をひたすら純化していく、「無」に向かっていくための試練なのです。

 

恐ろしいほど、ひたすら戦いに明け暮れた末に、勝ってもまるで得るものがないような道です。

ただし、この戦いを潜り抜けてこそ、本当の「自分」になることができるのだと、私は思います。

「悪」に感謝できるか

自分に悪い出来事が起こったり、良くない「気」を感じる時、自分にまとわりつくものは自身の存在を通して、己に悪い部分があることを知らせてくれます。

 

自分の心や行いに悪いところがあるから、近い性質のものが引き寄せられて、良くないことが現実に起こります。

これは「シグナル」であり、この仕組み自体を壊すことはできません。

宇宙開闢以来、私たちは「禍事」を通して物事が進む仕組みの中にあるからです。

 

だから、自分の良くない部分を教えてくれる「悪」には、感謝の気持ちでいなければならないのです。

自分を成長させてくれてありがとう」という心境に至ってこそ、全てが一列一平になるのでしょう。

 

しかし、目の前に起こる不正や欺瞞、あらゆる悪事が罷り通るのを見ると、そうは言ってもという感情を抱いてしまいます。

頭では考えていても、抽象的には納得できても、現実でめぐり逢う理不尽な出来事に感謝するのは、とても難しいことです。

 

それほど「神の道」は多難で、思う以上に一筋縄ではいきません。

だからこそ、一度やそこらの人生ではなかなか終点まで辿り着けない、これが人が神に近づくための試練なのだと思います。

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