今の世界を霊的に喩える

3000年続いた「闇の世」を人間社会に言い換えると、国家機構もちゃんとあるし警察機関もしっかりあるけれど、地元のマフィアが街全体を牛耳っているようなものでした。

 

そのマフィアのボスを「悪神」とか「大魔王」と言っても良いのですが、今はボスが引退してNo.2やNo.3くらいの頭目が派閥争いをしながら、シンジケートを動かして大暴れしている状況です。

 

これまで「警察」は何をしていたかというと、あまりにマフィアの権力が強すぎて、検挙どころかゴミ拾い程度の仕事しかできていなかったのです。

しかも、賄賂で寝返ったりマフィアの言い分を信じる警官もいて、住民には頼りない存在に思われていました。

 

けれど、これから新政府に変わり、新しい警視総監が就任する運びになって、国家機構の内部の新勢力が頭角を現し始めました。

その趨勢に引きずられて、有志の「自警団」がマフィアの摘発を始めたのです。

 

これからどうなるのかは、誰にもわからないでしょう。

なぜなら、その行動を起こしているのが私たちだからです。

天使の心と悪魔の心

よく漫画で「天使の心」と「悪魔の心」が戦うという描写が見られます。

 

これはフィクションでの話ではなく、実際に「天使の心」が神界に通ずる「正流」、「悪魔の心」が幽界に通ずる「外流」という霊線に繋がっています。

 

「どちらを取るか」という決断において、これまでの時代は「悪魔の心」の方が圧倒的に勝るケースが多かったのです。

これが「闇の世」たらしめる所以であり、外流の力が強すぎるために「善」はいつもおざなりになっていました。

 

しかし、ここ数ヶ月で日本人一般の「正流」が強まり、「天使の心」が状況を覆すケースが多くなったように見受けられます。

「現象」は霊的なレベルから起こるので、この変化が後の世に及ぼす影響は見過ごせないでしょう。

 

戦争が起きている国では、「外流」の霊線が強くなります。

反面、日本人が「正流」に優位性を持ち始めたことの意味は、これから決定的な違いとして現れることになると思います。

祓戸劇場「パワー!!」

お祓い漫画「HARAEDO」の「祓戸劇場」の第二弾、今回の主役は「天手力男神」こと「たぢから男の神」です。

 

たぢから先生が「パワー!!」と叫んだら、カラスが集まってきたそうです(大嘘)。

「天国」という場所

「天国」とはどういう場所か、わかるはずはないのですが、私のイメージではこういう場所だと思います。

 

天人は街で暮らしていて、仕事もありおしゃれを楽しんだり、趣味に興じたりもして、人間が思う以上に普通に暮らしている。

天人に性別はあるが、性にあまり意味はなく、友情と恋愛の境目もなく、誰と付き合うのも自由。

 

それぞれ自分がやりたいことだけをやっていて、それを生業としているのだけれど、好きにやっても結局は誰かのため、全員のためになることに結びついている。

だからあらゆる行動に無駄はなく、遊んでいるように暮らしても日々学び成長している。

 

天国に規則はなく、それぞれの人格の質が社会秩序に繋がっている。

実は、偉い人ほど奉仕的で、むしろ奉仕的であるほど偉いことになっている。

 

その中心にいるのが大神様で、周りの天人も人間から見れば神様。

神様は人間が思うより、人の価値観でものを考えない。

それは見ている世界が違うために前提が全く異なるから。

 

それでも、神様は人間を愛し人間に近づきたい気持ちすらある。

それは「人間」が神にとって全く異質の存在であり、興味の塊だから。

 

天国はこういうところだと思います。

プロパガンダ

今、メディアの形態問わずあらゆる情報には「プロパガンダ」の性質があると思います。

 

プロパガンダとは、戦時国が国民や敵国への情報戦を仕掛けるためのものだと思いがちですが、今の世では「セールストーク」や「ポジショントーク」も、それぞれの「戦略」の一手と考えると、どこでも小さい戦争が起きているのと同義です。

 

まして、世界では実際に戦争が起きており、戦争当事国は自国の利益を最大化するために「方便」を自粛することはありません。

関税や敵対的買収など「経済戦争」においても、ディールに混じって嘘情報が平然と垂れ流されるのが現実です。

 

ここで「真実を見抜く目」を欲すれば、却って自分の誤解を信じすぎる恐れに繋がります。

大事なのは、全て「半信半疑」であることだと思います。

そして、その判断が万が一間違っていた時に、逃げられるような遊びを作っておくことだと思います。

 

ただ、神様に関しては逃げ道を作らない方が良いでしょう。

人間は信用できない部分が確かにありますが、神様を信じきれなければ「信仰」にならないからです。

「大峠200年」説

日月神示「夜明けの巻」が書かれた1945年8月、リアルタイムで「天の岩戸」が開いたと考えられます。

「地(くに)の岩戸開き」が2029年とすれば、「同じことが二度繰り返される(青葉の巻)」のが84年後になります。

 

一つの「岩戸」が開き切るまでに大体80〜90年とすれば、「天の岩戸開き」が始まったのが1855〜1865年前後と考えられます。

日本の「幕末」が厳密に始まった時期とされる「ペリー来航」が1853年です。

 

天地の岩戸開きに係る期間を「約100年」とすれば、幕末期はスッポリこの中に収まることになります。

 

いわゆる「黒船来航」から日本は新体制への移行が始まり、最終的には欧米列強の一角となる道を歩むことになりました。

そして今、「アメリカ合衆国」を中心とした同盟が揺らいでいます。

 

このタイミングは一体、何を意味するのでしょうか。

日本が外国を模倣し、追随するだけの国家というアイデンティティを捨てた時、日本という「国」の岩戸が開かれる、そういう意味なのかもしれません。

「神人」と「現人神」

最近、私は自分のなすべきことに「これでいいのか」と戸惑いを感じていました。

 

「人として」どう見られたいかとか、自分の体裁を保つために世が都合よく動いてくれることを願う心が、いまいち取りきれない「我」となっていたのです。

むしろ、そうした「人としてどうか」という部分が、「神の道」を歩む上での妨げとなっていました。

 

当然、人間として抽象的になりすぎてしまうことへの恐れもあります。

そこまで突き詰めてしまうと、ますます人間社会で通用しなくなることへの不安があるからです。

 

しかし、心に神を宿す「神人」は、まだ「人」の範疇にあります。

神様は、ここまで来たら「神人」ではなく「現人神」になって欲しいのだと思います。

「もう一枚衣を脱げ」と。

 

そこまで到達することができてこそ「地之日月神」たりうるのかもしれません。

人間として抗えない存在でありながら「神」たろうとするには、確かに矛盾もあります。

 

しかし、「神の道」は突き詰めれば、そこまで行けるようになっているようなのです。

「人間を捨てる」ところまで神に促され、私はやはり、人として動揺を隠しきれない部分はあります。

「思い上がらない」

自分の才能は自分のものだと思い込んで、才能によって手にした全てのものは自分のものだと勘違いしがちです。

 

しかし才能の発露が「魂」から出るものだとすれば、その発想の源泉は「神」から来るものです。

神から与えられるエネルギーやインスピレーションは、どれだけ意地を張ろうと神様のものなのです。

 

「水道」に例えると、自分が蛇口として水を流しても、人が欲しがるのは「水」の方です。

「蛇口」自体は必要ですが、蛇口そのものを欲しがる人はいません。

あくまで、蛇口は水を出すために栓を開いたり閉じたりするだけです。

 

ただ人間はそれを勘違いして、蛇口から出る水は全部自分のものだ、と言いたがります。

そして、捻り出した水の対価も全て自分の懐に入るべきだと考えます。

 

ここで決して思い上がらず、「蛇口」に徹するくらい無欲でありたいものです。

どっちみち蛇口は、水を吐いたり止めたりすることでしか成り立たないからです。

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