漫画「今のアメリカ」

トランプ大統領「あわわ…イラン、なかなか折れてくれん…」

株式市場「見てみて!アメリカが戦争しなかったら世界の株式はこんなに好調なんですよ!」

 

金融業界「ホラ、平常時ならもっと儲けられるんです、たくさん贈り物してるんですから頼みますよ」

マグニフィセント7「そうですよ」

エヌヴィディア「俺はIT業界のFRB

 

イスラエル「つーかヒズボラが」

軍需産業「あれだけ贈り物してるんだから、もっと儲けさせて下さいよ」

エネルギー産業「俺らは別にこのままでいいっス」

米軍「( )」

 

バンス副大統領「ホルムズ海峡、封鎖解除できません!!

イラン「やるならやろうぜ、こっちには新しいカードもあんだよ」

国際社会「あのさあ…」

 

トランプ大統領「停戦を無期限に延長する!イランは早く敗北を認めろ‼︎」

 

磐戸の巻・第九帖

日月神示「磐戸の巻・第九帖(245帖)」より

 

「戦(いくさ)済んだでもなく、済まぬでもなく、上げも下ろしもならず、人民の智や学や算盤(そろばん)ではどうにも出来ん事になるのが目の前に見えているのだから、早く神の申す通り、素直に言うこと聞けと申しているのだぞ、

長引く程、国はチリジリに無くなるぞ、米あると申して油断するでないぞ、タマあると申して油断するでないぞ、命あると申して油断するでないぞ、この神示よく読めば楽になって、人々から光が出るのだぞ、辰の年はよき年となっているのだぞ、早く洗濯してくれよ」

「天神」の人間年齢

日月神示で「ナガモノの御姿(まつりの巻)」と語られる国常立尊と豊雲野尊。

天地をお造りになられた二柱神の本当のお姿は「ナギの神」が金龍、「ナミの神」が銀龍と考えられます。

神示で「竜宮の乙姫」とされる撞賢木向津姫命は「瀬織津姫命」と同定されるため、白龍と考えることもできます。

 

この三柱の大神が「御三体の神々」で、地を司るとされます。

地球の惑星年齢は約46億年ですから、少なくとも二柱神はその頃から「生き通し」であられることになります。

 

あくまで私の感覚なのですが、瀬織津姫様は龍神として非常に若い神様だと思います。

地球創生の頃から瀬織津姫様が生き通しであられると仮定しても、46億年という年月すら龍神の寿命に比べると短い時間なのかもしれません。

 

「招神万来」の記事で紹介した増田悦佐さんの「景気84年サイクル」に当てはめて考えると、2029年から黄金期をお迎えになられる「天日月大神」こと伊弉諾命は、これから「中年期」に入られると考えられます。

理論的には「42歳」ということになりますが、龍神にも「厄年」があるとすれば、この3000年は「厄祓い」の御歳だったのかもしれません。

 

伊弉諾命、伊奘冉命の二柱は揃って42歳、その末娘の撞賢木向津姫命はおそらく10代、この年齢設定で神様と向き合ってみると、何となく腑に落ちてしまう私がいます。

「悪」の非対称性

この世の「善悪」は不公平だと、ずっと私は感じてきました。

 

悪人ほど責任から逃れ、殆ど罪を償うことなく、奪ったものを元手に力をさらに強めていきます。

反面、善人は責任を一方的に負いながら被害の後始末まで行い、なお悪人を許そうとさえします。

 

この非対称性の正体は一体何なのか、ずっと考えてきました。

 

私が日月神示に出逢い、学びながら辿り着いた結論はこうです。

善が悪を「抱き参らせる」ほど大人にならなくてはいけない唯一の理由は、善人には未来があり、悪人に未来はないからです。

 

神示で「借銭」とある言葉が意味するのは自らの業、それも負のカルマそのものです。

 

悪人は元本を返済する努力をせず、借金に借金を重ねるタイプの生き方だからこそ、常に羽振りが良く順風満帆に見えます。

ただ借金ですから、返済負担も利子も膨らみ続けますが、借銭を最初から踏み倒すつもりなら、支払い義務への姿勢が根本的に欠落してもおかしくありません。

 

これを人生に喩えるなら、普通の人は社会で身を立てるため、義務教育を終えると高等教育課程に進み、いずれ就職します。

しかし悪人は、初等教育も疎かに遊び回り、借金を抱え手元の資金をギャンブルに注ぎ込むような生き方なのです。

 

大抵の人は前者なのですが、悪人の楽しそうな姿を見ると時に不公平さを感じることでしょう。

善人と悪人の非対称性は、これが「霊的」に現れた姿であり、人として真面目に生きた方がどう考えても手堅いのは確実です

 

なぜ、善人が悪人のように刹那的に生きようとしないのかと言えば、破滅するリスクが目に見えるからです。

末永く幸せでありたい人が、わざわざ破滅を選択する理由がありません。

まして、死後の世界も「霊人」として生きることを考えたら、ただ一時のためにその後の人生を台無しにすることが賢明であるはずがないのです。

 

こう考えると、長い目で物事を見る大切さに気づきます。

そして殆どの人は、不公平さを感じながらも手堅く生きることを選ぶのです。

 

これが「間違っている」ように見えるのが、今の世の中です。

まして、こんなあべこべが罷り通るのも時間の問題ではないでしょうか。

POISON

90年代のドラマ主題歌になった、反町隆史さんのヒット曲「POISON〜言いたいことも言えないこんな世の中は

SNS全盛の時代にあり、裏サイトもダークウェブもある現代にあって、「言いたいことが言えない」なんてことは逆にないのではないでしょうか。

 

身内や知り合いが「どうして?」という疑問を投げかける時、私としては10のうち9くらいは説明することが出来るのですが、残念ながら「お前は頭がおかしい」と言われる確率の方が高いので、私は「何でだろうね」と返すしかありません。

 

この歯痒さは、独特の苦悩だと思います。

1から10まできちんと説明できれば、問題の所在も解決の方法も導き出すことはできるのですが、大抵の人は「1」を聞いただけで逃げ出してしまうでしょう。

 

だから私は、いずれ時が来るまでは言いたいことほど言わずにおこうと思うのです。

例え私が人を動かさなくても、おそらく経綸は滞りなく発動するでしょうし、私ができないことは他の方がなされるはずです。

 

もしこの先、世の中の仕組みが思うほど変わらなくても、今でも自分の非を一切認めず、責任の一つも取ろうとしない人が真実の一つでも口にすれば、それだけで変わることはいくらでもあります。

ましてや、その行いを社会的に問われたら、仕組みとして成り立ちようがないことだってたくさんあります。

 

だから私は、どれだけ信頼されていなくても強気でいられるのです。

いつか、本当に腹の底から思うことを言える日が待ち遠しいですし、そういう機会はいつか必ず訪れると信じています。

霊的な「飢え」について

今、神社などに行っても以前ほど「神気」を感じられないかもしれません。

そのはずで、神様方は聖地の守護よりも優先的に日本の国土、地球全体のために御働きなされているからです。

 

それによる環境的な「霊的枯渇」が深刻な状態になっています。

「獣」の性質が強い人は、他人から霊的エネルギーを吸収し、また「金」という物質化したエネルギーを得て活力を取り戻します。

そこまで現金になれない普通の人々は、人や動物、自然との繋がりから心の栄養を得るわけですが、それだけでは霊的な飢えを感じるかもしれません。

 

人は「霊気」が尽きると、やる気がなくなるばかりか胸がつかえる感覚がして、だんだん感情の起伏もなくなってきます。

これは魂が「◯」の状態に近くなるからであり、対応策としては神の「気(・)」を入れるしかありません。

 

もし、身の回りで話のわかる方がおられるようであれば、楽太郎の「招神万来」や「絵語」を勧めてみて下さい。

日月神示の申されるように、私の手では人を引っ張るわけにはいかないので、どなたかの手を借りる必要があります。

内容はどうであれ、神気に近い波動を感じられるようになっています。

 

私の見る限り大抵の方は大丈夫でしょうが、これから地球的な霊的枯渇はますます深刻化してくると思います。

世界の「半霊界化」

どうもこの最近、やはり現実に起こる出来事と霊的なエネルギーの境目にタイムラグがなくなってきたように思えます。

 

これまでは「霊的」な現象としてエネルギー体で捉えられる部分と、現実的な事象には明確な隔たりがありました。

しかし今はエネルギーの状態が即、現実の事象として認識しやすい形で現れるようになってきているように見えます。

 

これは、「現界の半霊界化」が始まっている証ではないかと思います。

現実に起こる出来事からエネルギーの状態がわかるのは、これまでなかったことです。

 

私たちの日常世界が霊界化しているという事実は、世界線の二極化と日月神示に言う「神と獣」の分離に当てはめることができます。

この数年で世に起こった「社会的分断」により、すでに現実的には目に見える形で「話が通じない側の相手」として認識可能な状態になっています。

 

おそらく、これからはこの傾向がより顕著に現れてくることになるでしょう。

私たちにできることは、「分類して考えるべき相手」に対して、いくら社会的に力が強く、立場も正当に思えたとしても、自らの立場を選択した以上はポジションを守り通すことです。

 

一見、自分が逃げているように、負けたように見えたとしても、日月神示では「負けて勝つ(青葉の巻)」と書かれている通りです。

勝ちにこだわるべきではありませんし、それ自体が大事なわけでもないのですが、「生き残り」の観点で考えてみると、ここでも大事なのが「祓い清め」だと思います。

 

「神(信仰)」が勝つのか「学(権威)」が勝つのか、その結果は神示を通してすでに見えているはずです。

「罪穢れ」は悪ではない

私たちは生きているだけで「罪」を犯し、「穢れ」を負ってしまいます。

しかし、「罪穢れ」を負うこと自体が「悪い」ことなのではありません。

 

人間は生きるために生き物を殺して食べたり、肉体を交えなければ子孫を残すことができないように、「罪穢れ」は自然な生存と不可分なものです。

良くないのは、自ずと負ってしまう罪穢れに対して「祓い清め」を行わないことです。

 

この場合の「祓い清め」とは、「我」を浄化し「欲」を聖化し、自らの行いを悔い改める行為です。

食べ物にしろ、大して感謝もせずに捨ててしまったり、性に関しても時と場所と相手を選ばないから良くないのです。

 

ゆえにTPOをわきまえ、何をするにも順に従ってやる分には基本的に「自由」の範疇なのだと思います。

 

しかし、その自由を履き違えて、順が乱れたままになっていると、いずれ「禍事」に繋がってしまいます。

だからこそ、「祓い清め」とは「区別」でもあり、罪穢れに対してセットであるべき行為なのです。

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