「弥栄」の意味

おそらく「幽界」は、「力」を志向し「力」を象徴化したものを求める「競争」の世界と考えられます。

対して「神界」は、「力」ある者が持ちうる全てを分け与え、限りなく「無」に向かうことを美徳とする世界なのだと思います。

 

「大神」様は、この宇宙で最も強いお力をお持ちになりながら、ほぼ持ちうる力全てを「奉仕」に向けられるからこそ、天の世界では最も尊敬されるのではないでしょうか。

 

しかし神界の仕組みを理解せず、幽界の者が「神の力」を欲し、自ら神同等の存在に成り変わろうとする時、「俺ならこうする」という振る舞いが、そのまま「力の世界」を作り出すのでしょう。

つまり幽界とは、天の仕組みを模倣した世界であり、しかし「力」のあり方を正しく理解しないために「独占」を志すのです。

 

ただ「闘争」や「競争」が絶えない力の世界は、同じ目的を持つ者同士が世界を共有するため、繁栄の時は「長いか短いか」の違いでしかなく、持続不可能なのです。

「神界」は「奉仕」と「分かち合い」による「」の世界であり、永続性を持ちます。

そして、時を経るごとに少しずつ改善されていく、「善」を志向する世界が「弥栄」の世界たる所以なのでしょう。

 

なぜ「天国」が極楽たりうるのか、「地獄」がなぜ争いや欲望に塗れた世界とされるのか、ここから理解できそうな気がします。

そして地上世界は、決して「地獄」に向かってはならないのです。

この世を「天国」に変えるために、ここが「正念場」なのではないでしょうか。

「月」と浄化の関係

「新月」と「満月」の節目で宇宙的テーマが切り替わり、「新月-満月-新月」と「満月-新月-満月」の中間で「最高潮」を迎えるらしいことがわかってきました。

 

「新月」は「霊的世界」に対するアプローチであり、対して「満月」は「精神世界」、似て非なる内面領域への干渉が起こります。

「満月」がフィジカルな高揚をもたらすことからも、月が満ちる時ほど天から注ぐ次元的波長は低くなるということかもしれません。

 

5月の「次元上昇キャンペーン」の折、17日新月が霊的に最高潮であったことを考えると、満月のシークエンスで霊的影響を最も強めるのが「新月」、対して新月は「満月」という物質性の高い時期に干渉のピークを迎えるのだと思います。

 

私は以前、満月を「浄化」と捉え、人々の深層意識が変化する兆候と考えていました。

その中でも「懐古主義の見直し」や「拝金主義からの離脱」など、かなり本質に近い「浄化」の波動が降りてきたはずですが、世に変化が見られないどころか、「逆行」する兆候すらあることも気になっていました。

 

これはどうも「世界線の二極化」と関係があり、「神世」の側ではそうした「促し」が強いのだけれど、「人世」ではむしろ「抵抗」という姿勢に変わり、逆に強度を高める傾向にあるのかもしれません。

それもそのはずで、全世界が天から遍く「浄化」を受け容れたら、そっくり世の仕組みが改善され「二極化」する理由はありません。

 

だからこそ、天の「浄化」に「逆張り」する流れの方が、むしろ世界を巻き込む本流と言えるのではないでしょうか。

そう考えると、神々の御意志を素直に聞き入れた「神世」の側の人々から、「浄化」に伴う変化が起きることの説明がつきます。

 

日月神示では、「上中下」の身魂に分かれることで、世の中の仕組みがわかりやすくなるとされます。

おそらく、この「上澄み」のクラスタが、神世に進む人たちなのでしょう。

 

殆どの人が「手放し」を躊躇する中、変化を受け入れる気概のある人から先に「神世」に渡り、未来の「礎」となっていくのも、道理のように思えてなりません。

愛する人へ捧ぐ

今の我が国は「内憂外患」、四海を挟まれて「八方塞がり」の状況と言えます。

ただ「八方」の上で「」が開けていることに気づく人は殆どいません。

 

今は物質文明が行き詰まり、「学」や「技術」が迷走する社会と言えます。

」や「」という領域に気づけば可能性が開けているのに、心理的に抵抗があるせいで踏み込めない人が殆どです。

世界の「半分」は未知の世界でありながら、先入観で「」を閉ざしてしまうのは勿体ないことだと思います。

 

もし、誰かこの世から姿を消してしまった愛する人が、今「あの世」にいるとすれば、かえって安心感を覚える人もいるでしょう。

この世界は、目に見える宇宙だけではない」と考えるだけで、あと半分の世界に手を伸ばすことができるのです。

 

その人が去ったこの世界でも、「あの世」とはいつも繋がっています。

これは喩えではなく、私たちの世界は半分が「霊界」であるからです。

だからこそ、「亡き人」との絆は失われず、その人の「代わり」に生きることが肉体人の使命だったりするのです。

 

私も惜しい人を亡くしましたが、この世で上手く生きられなかった悲しみの分、同じ痛みを繰り返させないために世を変えようと思うのです。

それが今「あの世」にいるあの人の願いならば、その願いを代わりに叶える、それ以上に私ができることはないのでしょう。

「救い」の意味

今の世は「理屈」が力を持ち、そこに「金」が結びついて「政治」となっています。

まさに世は「」、神示に言うように九分九分九厘が「悪」の世です。

 

私は、そんな世界の息苦しさを何とかしたいと思ってきました。

ただ最近は、私が先回りして有象無象の正体について説いて回っても、それ自体に大した意味はないのではないかと考えるようになりました。

 

天が世界に「夜」をもたらすには、それなりの理由があるはずです。

私は悩める人を救うには、遍く「光」を配るべきだと考えていました。

ただ、天が一人ひとり自分の力で「光」を取り戻すことを願っておられるなら、私が先回りして手を差し伸べることは、かえって天の意志を邪魔することになります。

 

「救い」とは、決して「甘やかすこと」ではありません。

宇宙には「苦」を与えるだけの理由があり、必然があるはずです。

いくら人が苦しんでいるからと言って、強引に「救い」を押しつけることは、自分が思う以上に野暮なことかもしれないのです。

 

確かに、世に「苦しみ」はないに越したことはありません。

しかし、この「苦」が敢えて天からもたらされたものだとしたら、苦難を乗り越えること自体に意義があり、そのプロセスを「大峠」と呼ぶのかもしれません。

 

だから私がしゃしゃり出て、人の手を引いて回ることを、神様は許されないのでしょう。

おそらく神々は、「救える」と思う人しか救うおつもりはなく、私は予め救われた人しか関わることができないのだと思います。

 

そう考えると、自分ができることの小ささを感じます。

ただ、それ以上のことを神々が望まれないとしたら、この世界には今「闇」が必要であり、「苦」を敢えてもたらすことに意義があるからではないか、そう思えるのです。

「世直し」の記事公開

「招神万来」の方に、先ほど新しい記事を投稿しました。

「世直し」の仕組み

 

今回の記事のテーマは、世の「タテ直し」についてです。

もちろん、今月末31日の「射手座満月」についても解説しています。

 

やはり3月20日春分以降、世界の「二極化」は加速する一方のようです。

そんな中、世の「建て替え」の計画が徐々に見えるようになってきたのも興味深いと思います。

 

この記事では、最近「絵語」で呟いていたことも併せて、詳しく書いたつもりです。

久しぶりの長文投稿になりますが、ぜひお読み頂きたいと思います。

命捨て、命に生きる

人には誰しも「我」があり、108個の「煩悩」があります。

ただ「煩悩」を祓い清めて、「煩わしさ」や「悩み」を取り去ってしまっても、結局「」だけは残ります。

 

つまり「我」をいくら消し去っても、「欲望」を司る扁桃体や視床下部は残るので、「我」は消えきることはありません。

そこまで行くと、あるのは「我」ではなく「」であり、単に「自他」を切り分け、肉体としての自己を維持するための大切な要素となります。

 

「消費」が主たる現代において「我欲」を消し去ってしまえば、社会活動がうまく回らなくなる可能性があります。

しかし、ほぼ「幽界」に等しい現代社会で「神の道」を歩もうとするのですから、多少のリスクは覚悟しなければなりません。

 

今、「人間心」をできる限り捨て、逆に人間本来の生き方、あり方を取り戻そうとするのはとても勇気がいることです。

ただその時こそ、「命を捨てて命に生きる時」と言えるのです。

 

日月神示「雨の巻・第七帖」には、こうあります。

「役員、馬鹿にならねばならんぞ、大のつく阿呆になれよ、逆さ大の阿呆にあやまってくれるなよ、阿呆でないと今度の誠の御用なかなかだぞ、命捨てて命に生きる時と申してあろうがな」

 

「幸せ」というのは、誰かに「そんなことで幸せなのか」「他にもっと良い幸せがある」と言われても、自分にとって「かけがえない」と言える幸せこそ本物です。

そんな「唯一無二」の幸せを手にして、誰にも妨げられない場所こそが「天国」と言われるのではないでしょうか。

 

だからこそ、「人並み以上の幸せ」を求める必要はありませんし、それを望むことに大きな意味はありません。

その「礎」を築く場所こそが「奥山」であり、ここから新しい世が開けてくるのだと思います。

駆け込み「奥山」

今週が「奥山詣で」の当面最後になる時期とお伝えしています。

5月30日射手座満月を前に、霊的な「上昇気流」は日に日に落ち着き始めており、エアコンの駆け込み需要ならぬ「駆け込み上昇」が起きています。

 

すでに奥山におられた方は、新たに気場に入る人々の上昇をサポートするため、「霊人」としての活動が活発になっているはずです。

そのため、心身共に重圧を感じておられる時期かもしれません。

 

今、奥山に引き上げている人たちは「参道」に集まっています。

ここが「奥山」の入り口であり、この参道を進んだ先に霊団の気場が開かれています。

 

「奥山」は、神々の「救いの手」が入った人だけが入山を許されるからこそ、「我良し」という発想の持ち主ではまず関わることができません。

しかし私を含め、誰もが多少は「我良し」の気があるため、参道から徐々に「」というものを捨てながら、神の道を進んでいくことになります。

 

その途中で、今あるいらない荷物を捨てるうちに身軽になっていき、「身魂」は磨かれていきます。

そうして高い波長を持つようになった人たちが集まる気場だからこそ、奥山は「天国的」な霊団を形成するのです。

 

「霊主体従」の法則に従えば、霊的に天国的生活を送ることは、いずれ地上の生活もそうなると考えて良いでしょう。

また、霊的なレベルで「力」を得るということは、それも遠くないうちに実社会で発揮しうるようになる、ということだと思います。

 

些かフワフワした話に聞こえるかもしれませんが、実は「タテ直し」は霊的次元から始まっているのです。

これが本当かどうか確かめるには、もう少し先に進まなくてはなりませんし、時を待つ必要もあるでしょう。

 

ここで「信心」というものが試されます。

ここまで来て、神様からの「お蔭」を落とさないように気をつけたいものです。

「ガンバレ」と言う

「最近の若者は」と、若い世代をなじる言葉を聞かなくなったのは、大人たちの世代がどこか「疾しさ」を覚えているからかもしれません。

 

近年リリースされる新曲を聴けば、還暦も近い「大御所」のアーティストが、若者に向けて「ガンバレ」と歌うことに違和感を覚えることがあります。

少年少女にとっては、もう立場がそっくりある大人に「ここまで成り上がって来い」と言われているようにすら感じないでしょうか。

 

私はもはや「成功」というビジョンは、これまでの時代にあったものには求められないと思います。

むしろ今の若者たちにとってのテーマは「幸せになれるかどうか」であり、この世の中に握り潰されないように生きていくことなのではないでしょうか。

 

そんな中で世に「金」や「名誉」を求めれば、大人たちの踏んだ轍を素直になぞっていくに越したことはありません。

それが若い世代にはわかりきっているからこそ、「ガンバレ」という歌が空虚に聴こえるように思えてなりません。

 

ただ「ゼロ」から始めようとする若者たちに対して、私からも「ガンバレ」以上に掛けられる言葉はありません。

むしろ、私も一旦「ゼロ」に戻した側だからこそ、若者たちの抱える不安は決して他人事ではないのです。

 

これからの時代を生きる人たちは、「自分らしい幸せを手に入れる」という些細な願いを叶えるために、かなり理不尽な逆境を乗り越えていく必要があります。

私は一人の大人として、そんな若者たちに「一緒に成功しようぜ」というエールを贈るつもりはなく、世の中が少しでも生きやすくなるよう、私が「ガンバル」と約束することしかできません。

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