「神人」の仕組み

日月神示によると、人間は「神の宮」とされます。

 

人は地上世界のみならず、存在の半分を「霊界」に置くため、「肉体」を有する「霊人」の一種と言えます。

また、全ての人は大神から「分御霊(わけみたま)」を与えられた「神の一柱」でもあるため、そもそも人間の肉体を司る魂こそが「」なのです。

 

人間の「分御霊」は、身魂の「・(ヒ)」を通して、他の霊人や神々と繋がることが可能となっています。

「神の宮」とされるのは、「・」が神と繋がることで人間の心身に「神懸かり」を起こすことができるからです。

 

神示では、神懸かりした「神」からすれば、肉体人の存在は「感覚の対象外」とされ、肉体は無いも同然であり、それゆえ身体性を神に合わせる必要はないと語られています。

 

例えるなら、ゲームのコントローラーの主導権が誰かに移っても、ゲームの世界とは関係がないのと似ているかもしれません。

ゲームの「プレイアブルキャラ」を私たち人間とすれば、100ポイントダメージを受けようが「毒状態」になろうが、ゲームを遊んでいる側からすると別に痛くも痒くもないのと同然なのではないでしょうか。

 

ただ、プレイヤーとしては毒状態の時に「毒消し」がなかったり、敵が強すぎたり攻略に行き詰まったりすると問題があります。

その時、「攻略法」を熟知している神様が、耳元でアドバイスしたり操作を変わってくれたら、ゲームがスルスル進むはずです。

 

これができるのが「神の宮」に神が宿った人、いわゆる「神人」です。

おそらく古き良き日本人は、神懸かりがデフォルトのあり方であったのでしょうが、3000年続く「闇の世」で、この霊性を落としてしまったのです。

 

この失われた霊性を取り戻し、人間本来のあり方が世界中の人々に広がり、いずれ人類全員が「神人」となるのが、私が「神世」と呼ぶ「弥栄の時代」です。

人類はそもそも「神人」を生み出すため神から創造された存在であり、現世人はその「礎」となるべく、今こそ進化の切り替わりの時を迎えているように思います。

今こそ「祓い清め」を

どうやら今、「神に仇なす者たち」が異様に焦りを抱いているようです。

 

彼らの真の目的は「神になり変わる支配体制」の確立です。

そのため、世界に対する「権威性」や「全体主義」が、完全に配下へ収まっていなければならないのです。

 

しかし、ここまで「世界線の二極化」が進んでしまうと、もはや構造的に「世界征服」が不可能になってしまいます。

「世界の半分(厳密には5分の4)」は手に入らない領域に入りつつあるため、即ち「全体」を手にできなければ完全なる「征服」は達成できません。

だからこそ、彼らは焦っているのです。

 

現在、その「焦り」が実際に現象となっていますが、お分かりになられるでしょうか。

世界線の分離によって、神世を選んだ人々は「自立」の道を歩んでいますが、反対の「獣の道」は「全体的統制」のために、人々の「自立」を阻害しようとします

 

私たちにとって大切なことは、ひたすら障害となるものから「距離」を取ることです。

それが自分を守り、身魂を磨きながら「祓い清め」を行うことになります。

 

最近は色々ありますが、心配はいりません。

じきに、世は開けてくると思います。

世のため、人のため

毎日、神棚に拝む時に「世のため、人のために尽くさしめ給え」と祝詞を奏上します。

 

もし私がもっと「世のため」に行動しようとするなら、SNSアカウントでも始めたり、インフルエンサーと「コラボ」するなどして発言力を高めるべきかもしれません。

ただ、「世のため」にしたことが必ずしも「自分のため」になるとは限りません。

 

まず「自分のため」にやることが「人のため」になり、「世のため」になるようにすることが「いろは」だからです。

このスタンスでいると、なかなか評価や成果には繋がらないでしょう。

けれど、今の世は何でも「カタチ」となるものを出せば、すぐに対価を得られる仕組みになっています。

 

しかし、まず「型」を完成させてから作った「製品」でなければ、本来は対価を得るべきではないのです。

この「型」を造ることが将来的に「自分のため」になるのですが、私たちはしばしば、ここを飛び越えて中途半端なカタチでも出してしまいたくなるものです。

 

今、「どれだけ足踏みをしなければならないんだ」と焦る方がおられるかもしれません。

残念ながら今は「型」が求められる段階であり、それが「時節」というものです。

 

「時の流れ」こそ自分の思うようにはなりませんが、私たちが今できることは、いずれ「時」が来たらすぐに世に出せるところまで「準備万端」にしておくことです。

ここで辛抱を続けられるかに、「信念」の強さが関わってきます。

 

まして「臥薪嘗胆」こそが「世のため、人のため」に必要な段階なのだとしたら、この我慢こそ「自分のため」であったりするのではないでしょうか。

「天」のカリキュラム

人間には、「肉体の年齢と「の年齢があります。

 

肉体年齢と魂年齢は一致しないため、例えばご年配の方でも「霊人」として見れば未熟な人もいます。

ただ、見た目はこの上なく「大人」に見えるため、本人の精神性と矛盾が生じるのです。

 

「魂年齢」は、霊人としての修行度合いや「生まれ変わり」の回数によって変わってきます。

また、生前に「霊界」においてどれくらい高い階層に住んでいたかも関係するようです。

 

人間は生まれた場所や教育内容によって「人格」が決まるように考えられていますが、基礎的な部分では生前の要素が大きいのです。

あたかも「親」より「子供」の方がしっかりしていることも起こりうるのは、「身魂」のあり方にも関係しているからです。

 

なぜ、地上に生きる人に「霊的差異」が生じてしまうのかというと、霊界における「修行」に対するスタンスの違いと言えます。

 

霊界は身魂の程度によって、高い階層に行くほど「神の国」に近くなっていきます。

それは私たちが「もっと良い生活がしたい」と思って努力する感覚に似ているかもしれませんが、人によっては「このままで良い」と考えることもあるでしょう。

 

また、霊的階層を上がるための「カリキュラム」をサボり続けても、「留年」や「落第」が霊の世界でも起こりえます。

この「差」が、地上人としての霊性や修行度合いに影響してくるのだと思います。

 

だから、もし関わりのある年上の方を「未熟」に思えたとしても、「霊的多様性」の一部と考えても良いかもしれません。

こうして考えると、人の優劣を完全に見極める尺度が宇宙には存在しないようにすら思えるのですが、如何でしょうか。

「次元上昇」について

「神界」の状況が少しずつわかってきたので、改めて解説します。

 

この図は以前、「招神万来」の日月神示解説で使用したものです。

 

日本の最高守護神は「天照皇大神宮神=撞賢木向津姫命」とされますが、「霊主体従」の法則を当てはめると、「天の岩戸開き」以前の神国も「撞賢木向津姫命」が主宰神であったと考えられます。

 

では、「真の天照大御神」こと伊奘冉命と、「素戔嗚命」こと伊弉諾命がどうなされていたのかと言うと、二柱とも「九十の世界=中界」を支宰しておられたのだと思います。

「中界」を二分して「天の中界(幽界)」を伊奘冉命、死後の中間世界を含む「地の中界」を伊弉諾命が御担当なされていたとすれば、日月神示の文脈を矛盾なく説明できます。

(この図では、「中界」が地上側になってしまっている所が修正点です。)

 

つまり地上世界は二柱の御子神であられる「撞賢木向津姫命」と「伊弉諾命」を中心に主宰されており、「真の天照大御神」が不在の状態がおそらく3000年続きました。

この体制が「無理」であったため、地上世界は「闇の世」となっていたと神示には語られています。

 

1945年の「天の岩戸開き」によって、「天の中界」の封鎖が解かれ、神界と幽界の境界線が外されたのだと思います。

「大峠」という三千世界の構造改革において、この「幽界」に神々のメスが入るようになったのが、私たちにとって「戦後」の時間軸でしょう。

 

この時、幽界に居場所をなくした一部の霊人が、地の霊界に足場を移すようになったと考えられます。

これが近年、より顕著となり「神に仇なす者たち」の影響力が強まりました。

 

ただし、その地上も「地の岩戸開き」に向けて「現界の霊界化」と言える「霊的上昇=アセンション」という構造改革が行われる必要があり、2010年頃からそのプロセスに入ったと考えられます。

 

近年の地球の「高温化」は、おそらく惑星自体の霊性変化と結びついています。

人間も霊的上昇を経る時には「浄化熱」が発生しますが、この現象が惑星レベルで起こっているのではないでしょうか。

 

そう仮定すれば、昨今のスピリチュアル界隈で行われていた議論が、全て「日月神示」の文脈に収斂されてくるような気がします。

「世界」を立て直す

宇宙は一切の「悪者」を創らず、あらゆる「無駄」が存在しないように出来ています。

それが私たちから如何に忌まわしく思え、実際に障害となりえても、です。

 

人が「善」を志向し、心正しくあろうとしても必ず「悪」と突き当たります。

宇宙に真の意味での「悪」が存在しないのなら、人間が目の当たりにする「悪」も「善」の一部です。

 

「悪」が宇宙が成長し「弥栄」するために必要な存在なのだとしたら、どれほど「極悪」に見えたとしても、決して憎むことなく「学び」に変えていかなければなりません。

 

「弥栄」とは過去よりも今、今よりも未来をより良くする「働き」に他なりません。

人の歴史は常に「最悪」を乗り越えながら、少しずつ「善」のバトンを次の世代に繋げてきたのです。

だからこそ、今この時代に「悪」をきちんと乗り越えるべきなのです。

 

これこそ世の「立て直し」だと言うと、机上の空論に感じられるかもしれません。

ただ物事は「霊」から「物」に、思考や言葉は行動に移り、個人の活動は社会に波及していきます。

 

こうした理想論に過ぎない「」を、世に出すことに現段階の「弥栄」があるのです。

今はまだそんな状況でも、いつかきっと大きな意味をもつ、そんな時が来ると私は信じています。

日本の「富士」

「自分」というものは、「自分は自分、他人は他人」という考えを貫くからこそ確立できます。

 

それが「自分」であっても、「自分ではない自分」が心の中に潜んでいたりします。

ここから「本当の自分」を切り分け、「自分ではない要素」を切り離していく作業が「祓い清め」です。

 

この過程こそ「神の道」と言えます。

こうした実践を積み重ねるほどに見えてくるのが、「唯一無二=不二」の自分です。

 

「不二=富士」に至るまでの「山場」が「大峠」であり、それが今、宇宙から個人レベルにかけて起こっていることなのです。

 

我が国、日本はかつて「富士山よりも大きい山が大陸には沢山ある」と聞けば、「やはり島国は」となってしまったのでしょう。

ここで「日本」という国が「自分」を失ったことに、現在に至る問題がある気がします。

 

今こそ、私たち日本人の心に「富士(不二)山」を取り戻さなくてはなりません。

それこそ、まさに「地(くに)の岩戸開き」なのだと思います。

「神」のカタチ

「神」という御存在は、高度な次元に至るほど「概念」に近くなっていくようです。

 

例えば「愛」や「智」は、概念として存在することで宇宙を構成し、また存在自体が「機能」と言えます。

「神」は存在するだけで、この宇宙の働きそのものとなるのです。

 

ただし、それは「身魂」として存在する神々にとって崇拝の対象となる「神の神=大神」の次元の話です。

「神の神」は「身魂(霊体)の神」にとって完全なる上位にあり、神々に「神懸かり」をする御存在と言えます。

 

「身魂の神」は「龍体」を持たれることもあれば、「人身」の形を取られることもあるようです。

日月神示では、神には元々「人になりたい」というお考えがあり、あえて「人身の神」たろうとしておられる気配すらあります。

 

もちろん、人間は神の「写し」として創造されたため、身魂の磨き方次第では「神同様」となることができます。

その時、人間の思考の一部である「概念」が、根本は宇宙の働きである「大神」に通じるからこそ、人が神に近づけるということなのでしょう。

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