「絵描いて皆にやれよ」

今「奥山」にいる人々が各々に動き始めたのは、やはり間違いないように思います。

おそらく奥山におられる方々には「招神万来」を通して、伝えるべきことを一応伝えきった、ということなのかもしれません。

 

それは私にも自覚できなかったことなので、急に「自分のことをやれ」ということになると、戸惑う気持ちになったのだと思います。

 

これまで、前だけを向いてがむしゃらにやってきたので、やり散らかしたこともたくさんあります。

けれど、やはり神示にあるように「天明は画家となれ、絵描いて皆にやれよ(梅の巻)」と、私の本来の仕事を通して「一二三」を伝えていくことが御神業、という段階に入ったのかもしれません。

 

こうして自分の生業に戻ると気になるのが「評価」ですが、しばらくはそんなことを気にせず、自由にやりたいと思います。

 

大事なのは「気持ち」、その時勢はまだまだ続くでしょう。

おそらく、しばらくの間はそれで良いのだと思います。

種蒔きと「旅立ち」

3月20日の春分から劇的にテーマが変わり、その勢いに私自身がついて行けていない状態です。

 

これまで、私は「導き」というテーマに基づいて行動していましたが、これを期に「自分のこと」を考えるようになりました。

ただ、この切り替わりに頭がついていかず、今だに「これで良いのか」と自問自答することもあります。

 

「奥山」の霊団にいた人々も、それぞれに「独立」の心境にあるように思います。

芽が出て実がなるのが3年後だとしたら、今は「種蒔き」の時期なのでしょう。

 

そう感じるのは、気場の様子を見ていると、かなり動きが出てきたように思うからです。

 

「才能」と自らの思想を武器に、既存の枠組みを超えるための実験が始まっているのではないでしょうか。

これをやって、どう身を立てて行こうか」という試みと言えるかもしれません。

 

今の日本の商売のやり方が間違っている訳ではないのですが、今はどんな商いも時勢が良くありません。

そんな中、「ダメ元」でやるからこそ、面白い結果に結びつくのかもしれません。

 

日本の戦後復興期には、モノがない中で「才能」と「情熱」だけで我が国は世界有数の経済大国に成長したのですから、まだモノがあるだけ、チャンスは転がっているのではないでしょうか。

祓戸劇場・第一帖

 

【アフターエピソード】

 

たなばた姫先生はネームと下描きなしで、最初からペン入れなさるそうです。

「仏教」と神の道

日本人にも馴染み深い「般若心経」に書かれたお経には、要約すると「全ては”空”であり実体はなく、こだわる必要がないものだから、諦めて仏の世界に向かいなさい」という教えが書かれています。

 

「諦める」とは、「明らかに見る」の意で「真実だから受け入れるしかない」という境地でもあります。

この世は「仮初」のものであり、だからこそ現世を唯一絶対と考えて囚われ続けてはいけませんよ、という内容です。

 

これは日月神示にいう「神の道」に近い考え方であり、仏教の「空」は「◯」と言い換えることもできます。

神示にある「◉」の真ん中の「・」は「ム(無)」であり、対する「◯」が「ウ(有)」とすれば、「無の境地」を志す仏教は「神の道」そのものです。

 

日月神示では、「五つの岩戸閉じ」に「仏魔が渡ってきた」ことを含み、また仏教は「救うべき宗教」として語られています。

ただ「神の道」を実践してきた日本人がかつて零落し、それでも「仏教」の中に神の道のエッセンスを見出したことで、現代にもその考えが伝わり、古き良き教えを残すことができたのかもしれません。

「いい人」が不幸になる理由

「神に仇なす者たち」は、神の性質が強く現れている人ほど、陥れようとしてつけ狙う傾向があります。

「才能」や人格としての優秀さを持った人ほど悪い人に利用されやすいのは、その一つの現象に過ぎません。

 

マイケル・ジャクソンやエルビス・プレスリーが、銭ゲバやマフィアに漬け込まれて身を滅ぼしたように見えますが、それを単なる「不運」に見せようとするのが「悪神」という存在です。

「なぜ、あんな良さそうな人が」という事象ほど、「魔」の存在の関与を疑うべきです。

 

しかし、この唯物論の世の中では「霊」の話をすると、話の発端や因果関係そのものを疑われてしまうのです。

これも「神に仇なす者」のレトリックなのですが、今の世ではこのことを指摘するだけでもリスクが高いと言わざるを得ません。

若者に伝えたいこと

そろそろ春休みが終わりそうだと知り、今の若者たち、特に学生に伝えられるとしたら、私は何が言えるだろうかと、ぼんやり考えていました。

 

それはもう、自分の学歴とか経歴を気にしすぎず、むしろ何をしていても自分の経験や、身についたことだけを大事にすることだと言いたいです。

 

良い大学を出ても、世の中にバカはたくさんいます。

人間として大切なのは、どんな状況でも自分の力で「幸せ」になれる能力があるかどうかです。

 

だから、進学先を間違えてしまったとか、学校に行けなくなってしまったとか、そんなことでクヨクヨするのは勿体ないと思います。

むしろ学校だとか就職だとか、そんな経歴があってもなくても同じような世の中を作ってやる、くらいの気概のある大人になって欲しいです。

 

また、私たち大人はむしろ率先してそういう世の中にしていくべきだと思います。

肩書きなどなくとも「こういう大人になりたい」と子供たちに思わせられるような、そんな大人でありたいものです。

「過ち」と霊界

 

この図は、以前「招神万来」の日月神示による霊界解説で使用したものです。

 

「副守護神」から流れる霊流は「外流」が正解であって、この図の表記は間違いです。

 

私たちは時々、すごく嫌な気分になったり、急にカッとなったりすることがありますが、その場合は「外流」の霊的干渉を受けていると考えて良いと思います。

それは「邪気」とか魑魅魍魎の類の影響であるケースもありますが、霊界の自分と「幽界」の霊人との交流によって霊障がもたらされることが多いようです。

 

そして、その迷惑な霊障の原因には、浮かばれぬ「ご先祖様」が関わっている可能性が非常に高いのです。

と言うのも、未だ低い霊界に属するご先祖様は、子孫の肉体を借りて「修行」する時、「悪い癖」も現世で再現してしまうのです。

 

「自分らしくない失敗」が起こるとしたら、ご先祖が生前の過ちを克服しようとして、子孫の身を借りて「学び」を得ようとしている最中なのだと思います。

 

子孫である私たちは、目の前の「過ち」から逃れることなく、きちんと向かい合い乗り越えることで、ご先祖は悪い「癖」を現世の身を借りて直すことができ、より高い霊界に上がっていけるようになるのです。

高い霊界とは「天国」のことであり、それが神の道では「供養」に当たります。

日本の「良心」

今「コンプライアンス」は、人々が失った「道徳観」を埋め合わせる形で、社会の維持に貢献しているのだと思います。

 

確かに、何でもかんでも「ルール」にしなければならない環境は、息苦しく肩身が狭い世界です。

そもそも、人の「善悪」が個人の判断を離れ、「集団」という大きな枠組みの中で「同調圧力」にするしか機能できなくなったのが問題です。

 

今の若い人たちは、押しつけがましい「コンプライアンス」の世界で、息苦しくても何とか順応しようと必死なのだと思います。

ただ、社会に押しつけられたとはいえ、現象面で見れば「規則正しい」行動を習慣化できているのには変わりありません。

 

「正しい」習慣が「何故なのか」という理由がわからなければ、これを「押しつけられている」と感じることもあるでしょう。

問題はそこであって、「正しさ」の理由がわかれば、規則正しすぎる行動様式も窮屈なだけのものではなく、実際に社会のためになる知見であることに気がつくはずです。

 

今の若い人たちにとって、「形から入っている」ように感じるでしょうが、気持ちだけあってやらないよりも、身についた習慣の方が役に立つこともあると思います。

トップに戻る