獅子、吼える

さて、7月14日は「蟹座新月」となります。

先月30日の「山羊座満月」以降「水星逆行」に入っており、これまでの期間は「記憶」や「内省」から今後の生き方を見据える時間になっていたかもしれません。

 

現在進んでいる「世界線の二極化」では、神世に進む人々にとって「内向的」にエネルギーが向かう期間だったと言えるでしょう。

ちょうど、長梅雨で外出する機会も減り、独りの時間が増えた方も多かったのではないでしょうか。

 

そして、今回の「蟹座新月」も「水星逆行」と「山羊座満月」の影響下にあり、より「感情」にフォーカスが当たる流れになると思います。

引き続き「殻の中」にある「自分」を見つめるような、そうした一ヶ月になりそうです。

 

私は今回の新月を「マイルストーン」的な位置づけと考えていて、おそらく重点は8月13日の「獅子座新月」にあると思われます。

今、神々から「大掃除」の手が入っている人は、おそらく7月28日の「水瓶座満月」辺りで心の掃除に一旦目処が立つか、佳境を迎えることになるはずです。

 

そこで一旦「身魂磨き」が一段落し、8月「獅子座新月」を迎えることになります。

「獅子座」は自己表現の星座と呼ばれており、ここら辺で吹っ切れた人たちが「吼える」ようなイメージが浮かびます。

 

おそらくここが、「天下の大掃除」序盤のピークポイントになるでしょう。

この流れのまま、9月23日「秋分」へ向かうことになりますが、またここら辺でエネルギーの趨勢がガラッと変わりそうです。

 

この長梅雨と不況感も、「内省」を促すのにおあつらえ向きの環境のように思えますが、今は本当に「内向き」のエネルギーを大切にする時期なのかもしれません。

これまでの生き方を振り返り、これから先の人生や社会のあり方を冷静に見つめ直すことで、この時期を境に秋以降に目指すべき目標が見えてくるのではないでしょうか。

「建て直し」が早まった

日月神示「キの巻・第八帖」には、こうあります。

「タテ壊しタテ直しが一度になるぞ、建て直しの世直し早くなるかも知れんぞ、遅れるでないぞ、建て直し急ぐぞ、建て直しとは元の世に、神の世に返す事だぞ」

 

「タテ壊し」と「タテ直し」が同時に起こることは、神示文中から読み取れます。

2026年7月現在、私の見る限り「タテ壊し」に関しては準備万端、「いつでも取り掛かれる状況」であるように思えます。

 

しかし今は「タテ直し」の方が問題で、「さらつ(新)の世」にするために人々の「キ(・)」が練り上がらないうちは、「タテ壊し」のみならず「建て替え」を一斉に始めることができないのです。

 

「まつりの巻・第二十一帖」では、こう述べられています。

「建て替えが二十年延びたと知らせてあろうが、建て替えが遅くなって、それから立て直しに掛ったのでは人民は丸潰れとなるから立て直し早く早くかかるからと聞かせてあろうが、人民には中々分からんなれど、世界の動き良く見て御用結構ぞ」

 

どうも霊物問わず、ここ最近の様子を見ていると「タテ直し」の予定が早まっている印象があります。

「タテ直し」の準備にかかる時間が少なく「タテ壊し」が早急に起こるということは、それだけ「丸潰れになる人が多い」ということになります。

逆に言えば「タテ直し」に早く取り掛かり、タテ直しに係る規模が大きいほど、「助かる人が多くなる」と言えるのです。

 

神々からすれば、「神世に上げられる人々」が予定よりも多かったからこそ、「タテ直し」の進捗を前倒しする必要があったということなのではないでしょうか。

 

正味の話、2025年3月20日「春分」まで、現宇宙は「大難ルート」に進む確率が高かったのです。

私は2025年始め頃、「大難ルート」は避けられないことを覚悟していたのですが、どうも「春分」から5月満月を皮切りに「小難ルート」に切り替わったようなのです。

 

「大難」を「小難」にまつり変える必要があったということは、天から見て「丸潰れにしなくても良い人々」がそれだけ多かったということになります。

つまりは「改心」する人、「改心する心のある人々」が想定以上であったことで、この人々が「タテ直し」の御役へ回るに伴い、スケジュールを早める必要があったということでしょう。

 

現に、「天井」に近い方から始まった「天下の大掃除」は、まだ「最初の方」にも関わらず、かなり大規模かつ時間を要しています。

むしろ「タテ壊し」を伸ばし延ばしにしているようにすら見え、現在の奇妙な空気は、天による「やむに止まれず」のご都合によるものかもしれません。

 

これは、非常に「吉兆」と呼べるものです。

それだけ「タテ直し」が堅調であるということは、来たるべき時に「建て替え」が上手く運ぶことになるからです。

「運命」を変える方法

日月神示「黄金の巻・第八十七帖」には、こうあります。

「誠に改心が出来たと神が見届けたら、今度はこの世はもとより、何の心配もない様に守って肉体、顔まで変えてやるぞ、宿命と運命は同じでない、磨けばどんなにでも光るぞ、放っておいても神に背く者は自滅して行き、従う者は弥栄えて行くぞ、そこに神の能はたらきあるぞ、良く悟って下されよ、人間の処理方法と神の処理方法と融合せねばならん

 

もし「天の咎」を負うことが「降誕人」の宿命なら、地上に生まれる前から理不尽な目や、辛い経験をすることは避けられなかったかもしれません。

しかし、「運命」が自分で切り拓けるものだとしたら、どんなに逆風が吹きがちな人生であっても、自分の求める「幸福」は必ず得られるはずです。

 

そのためには、自分の力(自力)だけで何事も乗り越えようとするのではなく、「他力」すなわち「神の能き」を知り、神に身を委ねて生きていくことが大切です。

そこで「人間としての自分」、つまり「我」を出すことなく、その都度「神の処理方法」を採用する必要があるということです。

 

「神の処理方法」について、「春の巻・第十六帖」にこう書かれています。

風吹けば、風を一先ず甘受せよ、甘受した後、処理して行かなければならん、受け入れずにハネ返すのは大怪我のもと、何回でも何回でも、同じこと繰り返さねばならん事になるぞ、何か迫り来るのは、何か迫り来るものが自分の中にあるからぞ、内にあるから外から迫るのじゃ、自分で呼び寄せているのじゃ、苦しみの神、因果の神を呼んでおいて、不足申している者多いのう」

 

「内にあるから外から迫る」というのは、「引き寄せの法則」と言えば一言で伝わると思います。

それは「内の自分」が「神」の性質を持つからであり、身魂の質が変わらない以上、内の自分が招き寄せる事象の性質も変わらないということです。

 

ゆえに「身魂磨き」が求められるのですが、「一先ず甘受する」ことについて、「春の巻・第三十六帖」では、こうあります。

何事に向かっても先ず感謝せよ、ありがたいと思え、始めはマネゴトでもよいぞ、道は感謝からぞ、結構と思え、幸いと思え、そこに神の力加わるぞ、不足申せば不足うつるぞ、心のままとくどく申してあろうが、病気でないと思え、弥栄と思え、病治るモト生まれるぞ、キがもとぞ、何事来るとも何クソと思え、神の力加わるぞ、恐れは恐れ生むぞと申してあろうが」

 

まず、どんなことが起きても目の前の出来事に「感謝」し、それを受け容れることが「神の処理方法」の始めと言えるでしょう。

言葉では簡単に述べることはできますが、実際にやると困難極まるものであることは、容易に想像できます。

 

例えば「泥まんじゅう」を顔に押しつけられて、ありがたく召し上がるようなことは普通の人にはできません。

しかし「神の処理方法」で考えたら、感謝して食べる「泥まんじゅう」も、心次第では「ご馳走」ということになります。

 

そうは言っても、やはり直感的に納得できるものではありません。

ただ、こう考えることはできます。

捨てるはずの「大根の葉っぱ」も、自分の腕次第で絶品料理に変えることは可能です。

 

私たちは、目の前に起こる良くない出来事は、瞬時に「悪いもの」と捉え、それ以外の考え方をすることはあまりありません。

それだけではなく、「一時的」に不利な状況になっただけで、結果から見れば「一つの過程」にすぎないことだって沢山あります。

 

決して「一面」だけでは捉えない、こうした「俯瞰的な見方」こそ「神の処理方法」であり、「永遠の立場」からものを見る方法と言えます。

私たち人間は命が短いため、少しの時間でも勿体なく感じ、すぐに「結果」を求めて早急に結論を出してしまいます。

だからこそ「神の御心」を知り、その考え方を学ぶことは、私たち人間が「運命」を切り拓き、「弥栄」に生きるために重要な意味を持つのです。

「降誕人」について

日月神示「竜音の巻・第三帖」には、こう書かれています。

「特別の使命をもつ天使は最下級の霊界まで降りて来て、人民に特別な通信をなし、指示することもあるぞ、また天使の霊が母体に宿り、人民として生まれ来る事もあるぞ、末世にはこの種の降誕人が沢山あるぞ」

 

神示によると、「神界」は「天国」と「霊国」に分かれ、「天国」には「天人」が、「霊国」には「天使」が住むと語られます。

「特別な使命を持つ天使」とは、おそらく「天命で遣わされた天人」のことであり、私たち人間から見ると「神様」に当たる御存在です。

 

そして「降誕人」とは、天命により地上に降りた「天人」または「天使」であり、とりあえずここまで説明すると、ご自身の性来について感じるところがあるかもしれません。

「春の巻・第五十一帖」には、こう書かれています。

「人民の因縁、性来はみな神示に書かせてあるぞ、そなたのこと何もかも一目じゃ、因縁分かって嬉し嬉しで御用結構、嬉し恐ろしくなる仕組み」

 

また「第二十四帖」には、こうもあります。

「その人民にメグリなくしても、メグリ負うことあるぞ、人類のメグリは人類の誰かが負わねばならん、果たさねばならん、善人が苦しむ一つの原因であるぞ、神の大きな恵みであり試練であるぞ、分かったか、愛するものほど、その度が濃いほど魂が入っているのじゃ、先祖が大切していたものは大切せねばならんぞ」

 

なぜ「降誕人」が天から遣わされる理由があったかは、「海の巻・第十八帖」から読み取れます。

「悪を抱き参らす為めには、我が子にまで天の咎を負わせ、善の地の先祖まで押し込めねば、一応抱く事出来んのであるぞ、ここの秘密知るものは、天の御先祖様と地の御先祖様より外には無いのであるぞ」

 

この「天の咎」とは、「三千世界の乱れ」が神界から起こったものであり、その「罪」を天が負っているということでしょう。

「黄金の巻・第二十五帖」では、こう述べられています。

 

こんなになったのも、この方等が我が強過ぎたからであるぞ、我を出すなと申してあろう、この度の岩戸開きに使う身魂は、我の強い者ばかりが、めぐりだけのこと償って償うことぞ、天地をかまう神でも我出せんことであるぞ、神々様も懺悔して御座るぞ、ましてや人民、岡本天明も改心、まだまだのまだであるぞ」

 

「天国の天人」とは、人間から見れば「天の神々」であり、かつて神々は「我」によって三千世界を乱したため、今に至る「闇の世」をもたらしてしまったと考えられます。

その「天の咎」は、天に住まう世を乱した側が「償う」のが道理であり、そのために「降誕人」が地上に生まれ堕ちる必要があったのでしょう。

 

私は、これまで自分と同じ「性来」を持つであろう人々と出逢ってきましたが、それほど少なくない人々が今地上に降りてきていると感じます。

しかし彼らの多くは、全く波長の異なる地上に上手く馴染めず、または心ない人々にコテンパンにされて、かなり残念な印象になってしまっている人が殆どでした。

 

こうした天に縁ある人が、日月神示や私のところに集まってきているのを感じますし、「世に落ちている」降誕人が浮かばれるためには、「天命」を果たす以外ありません。

元々「天国」という場所にいたからこそ、この地上を「天国」に作り替える方法を知っていると言えるのです。

 

私たちはかつて「神様」と身近なところにおり、神の愛を強く受けたからこそ、今ここに集まっているのでしょう。

天の代わりに贖罪を果たすことは、「神様に貸しを作っている」とも言えます。

今ここで「天命」を果たせば、きっと何かしら天からの「見返り」はあるはずです。

「身魂磨き」の方法

日月神示では、身魂の「掃除洗濯」について、こう述べられています。

「扶桑の巻・第十三帖」からです。

「自分の中の自分を掃除して、自分の外の自分を洗濯して磨けと申しているのぞ、磨けば神と同列のミタマぞ、釈迦ぞキリストぞと申してあろう、内にあるものを磨けば、外から響くものも磨かれた、穢れ無いものとなるのじゃ、中の自分を掃除しないで居ると、いつまで経っても、岩戸が開けていても岩戸は開けん」

 

地球の「次元上昇」と宇宙の「霊界化」が進む今、自らの「波長」のもたらす影響力は決して無視できるものではなくなっています。

まして「神の御用」をなし、「神世の礎」となるべき人々にとって、「身魂磨き」こそ最も重要な「御神業」と言っても過言ではありません。

 

「春の巻・第十一帖」では、こうも述べられています。

内の自分は神であるが、外の自分は先祖であるぞ、先祖疎かにするでないぞ、先祖まつることは自分まつる事ぞ、外の自分と申しても肉体ばかりでないぞ、肉体霊も外の自分であるぞ

 

「掃除すべき中の自分」とは「神としての自分」であり、「洗濯すべき外の自分」とは「肉体(霊)としての自分」ということです。

この二つ揃って身魂の「掃除洗濯」となるのですが、「内の自分」と「外の自分」を調和させることが「まつり」であり、身魂の「祓い清め」になるのです。

 

これを実践すると、自分の腹にある「ゴモク」と向き合い、「内の自分」を掃除するほどに、これまで「外の自分」がしてきた出来事がさまざま思い出されるでしょう。

これこそ実社会の中で「外の自分」として生きるうちに、歪んだ「念」を「内の自分」にお仕着せ、顕在意識として封じ込めてきた何よりの証拠です。

 

「身魂磨き」が進むほど、これまで思い出すことすらなかった、懐かしい古い記憶が鮮明に呼び起こされてくるはずです。

今ある「ゴモク」は、その記憶に直接繋がっていると言えないまでも、その頃に抱えていた「念」である可能性が高いのです。

 

こうして自分の中にある古い「念」を浄化していくうちに、ずっと昔に忘れていた記憶が甦り、その頃の失われた「自分らしさ」を取り戻していくことができるでしょう。

「身魂磨き」とは、「内の自分」と「外の自分」が互いに「和解」していくことであり、「内と外」が一つになるにつれて身魂は「◉」という本来の姿に戻っていきます。

 

そうなれば、遠慮して固くなっていた「大人」としての心が解け、まるで「子供」のように素直な、自然体の自分に戻っていけるはずです。

世の中がどうであれ、家族や友人に守られて何の心配もなかった、あの頃の「無敵感のある自分」になれば、今にできないことはないと感じるに違いありません。

「借銭」について

私がよく引き合いに出す「借銭」とは、平たく言えば「負のカルマ」のことですが、厳密には「巡り=因縁」そのものと言えます。

 

日月神示「月光の巻・第四十四帖」には、「借銭済まし」について的確に表現した文章があります。

「この道に入ると、損をしたり病気になったり、怪我をしたりする事がよくあるなれど、それは大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、その借銭の清算をさせられているのじゃ、借りたものは返さねばならん道理じゃ、損も良い、病気も良いぞと申してあろうが」

 

私は「日月神示」を読み始めてから、実際にガチの怪我や病気が身に降りかかり、「借銭返し」のターンを本気で経験しました。

この体験は「招神万来」でリアルタイムで綴っていますが、読者の方はまさに同じ状況を辿っておられる最中かもしれません。

 

神示「地つ巻・第八帖」では「借銭」について、こう言及されています。

「祓いせよと申してある事は、何もかも借銭無しにする事ぞ、借銭なしとはメグリなくする事ぞ、昔からの借銭は誰にでもあるのだぞ、それを払ってしまうまでは誰でも苦しむのぞ、人ばかりでないぞ、家ばかりでないぞ、国には国の借銭あるぞ、世界中の借銭なしはどうしても大望であるぞ、今度の世界中の戦は世界の借銭無しぞ、世界の大祓いぞ

 

この「メグリ」というのが、仏教で言う「業(カルマ)」に当たるのですが、あらゆる「因果」の中でも特に「天に対するもの」であり、「神」だけでなく「幽界の者たち」との間にもある「巡り」と言えます。

 

「身魂磨き」が腹の中の「ゴモク」を掃除することにあるのも、「幽界との因縁を断つ」という意味合いを含むからです。

この「幽界との因縁」こそ、「借銭」そのものと呼ぶことができます。

 

なぜ「幽界」との繋がりが天に対する「負債」になるかと言えば、「幽界」は人間の「我」の曲がった念によって作り出された霊界だからです。

そこで「我良し」になるから、「悪」を行い「我」で得するたびに、天へ対する「借銭」を負うことになるのです。

 

ただし天の「銀行」のシステムは、私たちが思うほど単純ではないかもしれません。

「五葉の巻・第四帖」には、こうあります。

 

「お尻を出したらキレイに拭いてやれよ、怒ってはならん、お尻を出されるには出されるだけの、何かの原因が己の中にあるのであるぞ、利子は後からでよいと申すが先に払う事もあるぞ、先にお尻を拭いてやらねばならん事もあるぞ、世が迫って岩戸が開いたのであるから、先にお尻を拭く事も出て来るぞ、思わぬお尻、持ち込まれる事もあるなれど怒ってはならん、気持ち良く拭いてやれよ、やがては神がそなたのお尻を拭いて下さるぞよ

 

私が思うに、人間は「財産」というものを一切持つことはできず、常に天から「借金」をするしかない存在なのかもしれません。

「借銭」を済ませば「善行」は「富」となって蓄積され始めるはずですが、天から見れば「他人のお尻を拭く」ような善行ですら「利子を先に払う」という扱いになっています。

 

「利子を先に払う」ということは、「借り入れ」の目処が立ち、いずれ「元本」の返済が始まるということです。

また「利子」の払い金の中に未来の「元本」が組み入れられているとしたら、その間は「稼いでいる」訳ではなく、ひたすら「借金」をしているだけです。

 

こう考えると、人間は「無一文」になることはできても、「借銭」をせずに暮らすことはできないように思います。

「借銭済まし」と言ったところで、ローンで「1000万円の借金」をするか、翌日払いで「1万円の借金」をするかという違いだけで、ここまで来ると「どちらが心理的に楽か」というだけの話です。

 

おそらく、「天国人のような暮らし」を望んだ人は、できるだけ天に利子をつけない生き方を選んだ人たちなのでしょう。

債務を抱えて羽振りのいい暮らしをするのも一つの生き方ですが、「借金返済」の悩みを減らすことを考えた方が、確かに平穏には暮らせるかもしれません。

 

そうなるように「巡り」を清算していこう、というのが神示に言う「借銭済まし」なのだと思います。

「神」とは何か

私たちは一般的に、神様を「悪いことから身を守り、幸福に導いて下さる”善”の存在」と考えます。

また「禍事」や「悪事」をもたらす存在を「邪気」や「悪魔」と称し、「神」に対をなす悪の存在とみなします。

 

基本的にその解釈に間違いはないのですが、大事なのは「神々」の上位に「大神」という御存在がおられるということです。

日月神示「黄金の巻・第三十帖」からです。

 

「道知るのみでは何もならん、道を味わえよ、歩めよ、大神の道には正邪無いぞ、善悪無いぞ、人の世に映って正と見え邪と見えるのじゃ、人の道へ映る時は曇っただけのレンズ通すのじゃ、レンズ通してものを見ると逆立ちするぞ、神に善と悪あるように人の心に映るのじゃ

レンズ外せよ、レンズ外すとは神示読むことぞ、無き地獄、人が生むぞ、罪ぞ、曲がりぞ、今までは影の守護であったが、岩戸ひらいて表の守護となり、裏表揃った守護になったら誠の守護ぞ、悪も善も、もう隠れるところ無くなるぞ」

 

「禍事」を司る「悪神」をお生みになられたのが「大神」である以上、「悪神」を統括する「大神」こそ真の「悪の総大将」とも呼べるでしょう。

ただ、これは人間が「善悪」という次元に落とし込んだから見える写像であって、「神」には本来「善悪」は存在しないのです。

 

ならば大神の「表の守護」とは、どういうことでしょうか。

「黒鉄の巻・第十六帖」からです。

 

「いよいよ表の守護と相成ったぞ、表の守護とは、良いものもなく悪いものもなく、ただ喜びのみの守護となる事じゃ、悪いもの悪くなるのは表の守護でないぞ、心得なされよ、

一つの魂を得ることは一つの世界を得ることじゃ、人間は一人でないぞ、神は善人の中にも悪人の中にも呼吸しているぞ、悪なくては生きて行けん、悪は悪でないぞ、外道の悪が悪であるぞ」

 

神に「善も悪もない」ということは、「善の神々」より上位におられる「大神」の御心次第では、「禍事」も引き起こされるということです。

これは「凶事をもたらすのは闇の存在であり、光の存在は幸福を与える」という、私たちの一般的な先入観を揺るがすものです。

 

では、なぜ「大神」は「悪」を司り、世に「禍事」が起こることをお許しになり、また悪の趨勢を止めることもないのでしょうか。

それは単に、「悪」は「神の歓喜」の現れであり、「悪の自由」も保証するからです。

そして「悪」がもたらす「禍事」を通して、「善」を志向する人々が「悪」を学び「禍事」を乗り越え、「改善」に向かうことを「神の道」とするのです。

 

「悪を許す」という立場そのものが「善」でなければ成立しないため、「大神」が「善の最高神」であることは疑いえません。

ゆえに、「大神」は特に「善悪」を超越した「善の神」と言えるのです。

 

この「絶えざる改善の道」こそ「弥栄」というあり方であり、ゆえに「悪を抱き参らせよ」と神示では述べられるのでしょう。

「悪」も「神の一面」であり、「裏」の顔でもあるけれども、その限りではないということです。

 

私たち、人間の目に「神」は見えません。

まして「霊界」や「神界」のことは見当もつかず、身の回りの出来事を自分で解釈するしかありません。

 

そのため「良いこと」を「神」にお願いし、「悪いこと」は「神」に頼んで祓ってもらおう、と人は考えました。

しかし「大神」が人々を真の「幸福」や「弥栄」に導くならば、「禍事」を起こすことも一つの過程であり、また神の導きなのです。

 

神を「善良なだけの存在」と考え、「福をもたらす」と想像する限り、大神を元とした「神の本質」には気づけないでしょう。

人間は命が短く、視界も小さいので「全体」を見渡すことが極めて困難です。

ゆえに、目の前の出来事に一喜一憂してしまうのですが、そこに「神」の一面ではなく「大神」の御心を知ろうとすれば、今起きていることが決して単純なものではないことを理解できるはずです。

「改心」について

「改心」と言うと、確実に煙たがれるのを承知でお伝えしてきたつもりですが、日月神示「キの巻・第八帖」には、こうあります。

「なるほど、今までして来た事が天地の神の心に背いていると言うことが心から分かって、心からお詫びして改心すれば、この先末代、身魂を構うぞ、借銭負っている身魂は、この世には置いて貰えない事に、規則定まったのだぞ」

 

ただし「恐ろしくなっての改心では御用は難しいぞ(雨の巻・第十三帖)」ともあります。

この「天地の神の心に背く行為」こそ、私たちが普段の生活でしてきた、むしろ「人として」当たり前の行為なのですが、「神の道」を閉ざされた人の世にあっては、「神の御心」に反していることに気づけないのです。

 

一体、自分の何がいけないんだ」と思われるのが普通だと思います。

ただし、「自分は何も悪いことをしていない」という人間の思い込みこそ、世を構いし天から見れば「慢心」であり、わからないのも「身魂が曇っているから」と仰るのです。

 

あえて「何が悪いのか」を指摘するならば、人間が「自分のもの」と思う全ては、神々が与え給われた「神のもの」であり、厳密に言えば人間の「身魂」ですら大神の「分御霊(わけみたま)」であり、本来なら「自分のもの」は一切ないのです。

 

ここが「取り違え」であると、日月神示では語られているのです。

なかなか耳の痛い話ではあるのですが、天が与え給われたものを「自分のもの」と信じるくらいならともかく、「他人のもの」まで奪って「争い」まで始めてしまうのは、神の御旨に反するものであると直感的に理解できるのではないでしょうか。

 

そして、「青葉の巻・第十八帖」では、こう述べられます。

改心とは阿呆あほになることだぞ、世界中の阿呆中々じゃ、中々アホになれまいがな、世界中の人民に言って聞かして、改心さすのではキリがないから、大変を致さなならんのだぞ」

 

この「阿呆になる」というのが、「身魂磨き」の究極的な理想の姿なのです。

仏教では「行雲流水」の心を美徳としますが、これは「我欲」を捨て命を捨て、全てを「仏」に委ねる信仰的境地と言われます。

 

「無」になることを仏教は目指すのですが、船の舵を手放すように「神に身を委ねる」ことこそ、「阿呆になる」ということです。

この心境こそ「神懸かり」への入り口であり、「神人」への道と言えるでしょう。

 

そうなるために、「物心」をもつ人間の感性のままでは「神の御心」を知るのは難しいのです。

だからこそ、自分のしてきたことの意味を知り、その行為を省みることで「神心」に近づく必要があります。

 

「黒鉄の巻・第十一帖」では、こう述べられています。

人間は罪の子でないぞ、喜びの子ぞ、神の子ぞ、神の子なればこそ悔い改めねばならんぞ、真なき愛の道、悲しみの喜びからも生まれる事あるぞ、それは罪の子と申すのであるぞ」

 

私たちがしてきた「過ち」は、決して天に対する「罪」ではなく、「弥栄」に至る「学び」の一部として、「成長」に変えるためにあるということだと思います。

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