「天」のカリキュラム

人間には、「肉体の年齢と「の年齢があります。

 

肉体年齢と魂年齢は一致しないため、例えばご年配の方でも「霊人」として見れば未熟な人もいます。

ただ、見た目はこの上なく「大人」に見えるため、本人の精神性と矛盾が生じるのです。

 

「魂年齢」は、霊人としての修行度合いや「生まれ変わり」の回数によって変わってきます。

また、生前に「霊界」においてどれくらい高い階層に住んでいたかも関係するようです。

 

人間は生まれた場所や教育内容によって「人格」が決まるように考えられていますが、基礎的な部分では生前の要素が大きいのです。

あたかも「親」より「子供」の方がしっかりしていることも起こりうるのは、「身魂」のあり方にも関係しているからです。

 

なぜ、地上に生きる人に「霊的差異」が生じてしまうのかというと、霊界における「修行」に対するスタンスの違いと言えます。

 

霊界は身魂の程度によって、高い階層に行くほど「神の国」に近くなっていきます。

それは私たちが「もっと良い生活がしたい」と思って努力する感覚に似ているかもしれませんが、人によっては「このままで良い」と考えることもあるでしょう。

 

また、霊的階層を上がるための「カリキュラム」をサボり続けても、「留年」や「落第」が霊の世界でも起こりえます。

この「差」が、地上人としての霊性や修行度合いに影響してくるのだと思います。

 

だから、もし関わりのある年上の方を「未熟」に思えたとしても、「霊的多様性」の一部と考えても良いかもしれません。

こうして考えると、人の優劣を完全に見極める尺度が宇宙には存在しないようにすら思えるのですが、如何でしょうか。

「次元上昇」について

「神界」の状況が少しずつわかってきたので、改めて解説します。

 

この図は以前、「招神万来」の日月神示解説で使用したものです。

 

日本の最高守護神は「天照皇大神宮神=撞賢木向津姫命」とされますが、「霊主体従」の法則を当てはめると、「天の岩戸開き」以前の神国も「撞賢木向津姫命」が主宰神であったと考えられます。

 

では、「真の天照大御神」こと伊奘冉命と、「素戔嗚命」こと伊弉諾命がどうなされていたのかと言うと、二柱とも「九十の世界=中界」を支宰しておられたのだと思います。

「中界」を二分して「天の中界(幽界)」を伊奘冉命、死後の中間世界を含む「地の中界」を伊弉諾命が御担当なされていたとすれば、日月神示の文脈を矛盾なく説明できます。

(この図では、「中界」が地上側になってしまっている所が修正点です。)

 

つまり地上世界は二柱の御子神であられる「撞賢木向津姫命」と「伊弉諾命」を中心に主宰されており、「真の天照大御神」が不在の状態がおそらく3000年続きました。

この体制が「無理」であったため、地上世界は「闇の世」となっていたと神示には語られています。

 

1945年の「天の岩戸開き」によって、「天の中界」の封鎖が解かれ、神界と幽界の境界線が外されたのだと思います。

「大峠」という三千世界の構造改革において、この「幽界」に神々のメスが入るようになったのが、私たちにとって「戦後」の時間軸でしょう。

 

この時、幽界に居場所をなくした一部の霊人が、地の霊界に足場を移すようになったと考えられます。

これが近年、より顕著となり「神に仇なす者たち」の影響力が強まりました。

 

ただし、その地上も「地の岩戸開き」に向けて「現界の霊界化」と言える「霊的上昇=アセンション」という構造改革が行われる必要があり、2010年頃からそのプロセスに入ったと考えられます。

 

近年の地球の「高温化」は、おそらく惑星自体の霊性変化と結びついています。

人間も霊的上昇を経る時には「浄化熱」が発生しますが、この現象が惑星レベルで起こっているのではないでしょうか。

 

そう仮定すれば、昨今のスピリチュアル界隈で行われていた議論が、全て「日月神示」の文脈に収斂されてくるような気がします。

「世界」を立て直す

宇宙は一切の「悪者」を創らず、あらゆる「無駄」が存在しないように出来ています。

それが私たちから如何に忌まわしく思え、実際に障害となりえても、です。

 

人が「善」を志向し、心正しくあろうとしても必ず「悪」と突き当たります。

宇宙に真の意味での「悪」が存在しないのなら、人間が目の当たりにする「悪」も「善」の一部です。

 

「悪」が宇宙が成長し「弥栄」するために必要な存在なのだとしたら、どれほど「極悪」に見えたとしても、決して憎むことなく「学び」に変えていかなければなりません。

 

「弥栄」とは過去よりも今、今よりも未来をより良くする「働き」に他なりません。

人の歴史は常に「最悪」を乗り越えながら、少しずつ「善」のバトンを次の世代に繋げてきたのです。

だからこそ、今この時代に「悪」をきちんと乗り越えるべきなのです。

 

これこそ世の「立て直し」だと言うと、机上の空論に感じられるかもしれません。

ただ物事は「霊」から「物」に、思考や言葉は行動に移り、個人の活動は社会に波及していきます。

 

こうした理想論に過ぎない「」を、世に出すことに現段階の「弥栄」があるのです。

今はまだそんな状況でも、いつかきっと大きな意味をもつ、そんな時が来ると私は信じています。

日本の「富士」

「自分」というものは、「自分は自分、他人は他人」という考えを貫くからこそ確立できます。

 

それが「自分」であっても、「自分ではない自分」が心の中に潜んでいたりします。

ここから「本当の自分」を切り分け、「自分ではない要素」を切り離していく作業が「祓い清め」です。

 

この過程こそ「神の道」と言えます。

こうした実践を積み重ねるほどに見えてくるのが、「唯一無二=不二」の自分です。

 

「不二=富士」に至るまでの「山場」が「大峠」であり、それが今、宇宙から個人レベルにかけて起こっていることなのです。

 

我が国、日本はかつて「富士山よりも大きい山が大陸には沢山ある」と聞けば、「やはり島国は」となってしまったのでしょう。

ここで「日本」という国が「自分」を失ったことに、現在に至る問題がある気がします。

 

今こそ、私たち日本人の心に「富士(不二)山」を取り戻さなくてはなりません。

それこそ、まさに「地(くに)の岩戸開き」なのだと思います。

「神」のカタチ

「神」という御存在は、高度な次元に至るほど「概念」に近くなっていくようです。

 

例えば「愛」や「智」は、概念として存在することで宇宙を構成し、また存在自体が「機能」と言えます。

「神」は存在するだけで、この宇宙の働きそのものとなるのです。

 

ただし、それは「身魂」として存在する神々にとって崇拝の対象となる「神の神=大神」の次元の話です。

「神の神」は「身魂(霊体)の神」にとって完全なる上位にあり、神々に「神懸かり」をする御存在と言えます。

 

「身魂の神」は「龍体」を持たれることもあれば、「人身」の形を取られることもあるようです。

日月神示では、神には元々「人になりたい」というお考えがあり、あえて「人身の神」たろうとしておられる気配すらあります。

 

もちろん、人間は神の「写し」として創造されたため、身魂の磨き方次第では「神同様」となることができます。

その時、人間の思考の一部である「概念」が、根本は宇宙の働きである「大神」に通じるからこそ、人が神に近づけるということなのでしょう。

それぞれの「天国」

スピリチュアルの世界で囁かれていた「世界線の二極化」が、いよいよ現実のものになってきました。

 

これは「天国行き」と「地獄行き」を分けるものではありません。

「陰陽」それぞれの身魂が、各々の「天国」を目指して突き進む分岐点なのです。

 

「戦い」を愛する者が望む「天国」は「戦場」にあるというだけです。

身を切るような環境こそ望む彼らを、私たちが蔑み批判する根拠はありません。

 

もちろん、まだ時期的に未分化の人が殆どですし、どちらに足を踏み入れているのかわからない人々の方が多いでしょう。

ただ、そうした世界線の「混在」が整理され「祓い清め」られていくのが、これからの流れです。

 

我が国、日本が「膾にして食われる」ような危機的な状況は全く変わってはいません。

そうした暗い世相にあっても、なぜか心に余裕や「明るさ」があるのであれば、きっと乗り越えられることでしょう。

 

私も今だからこそ「本当に言いたいこと」ほど言えません。

それが事実だからと言って、言って良いとは限らないからです。

 

いつか、それぞれの人々が伸びのびと生きられる、そんな「天国」が訪れる日が、本当に待ち遠しいです。

新たな「兆候」

先日、17日牡牛座新月を迎え、やはり「上昇気流」がまだ終わっていないことを実感しています。

 

私の体感もだいぶ変わってきて、はっきりわかる形で「悪神」の干渉域から離れたことがわかりました。

すなわち「神に仇なす者たち」とは世界線そのものが噛み合わなくなってきたのです。

 

最近、私の出すメッセージの数が減ったことに気づいておられるかもしれませんが、私自身のテーマが「活動」に移ったことを示しています。

特に「どうやって稼ぐか」という戦略的な面で、ガッツリ動き始めた感じです。

 

また、おそらく私の感覚では新たに「神人」になる方がおられるのではないでしょうか。

時期的にも、個の「大峠」を迎えて「九十(こと)」の領域に入られる方がいらっしゃってもおかしくありません。

 

その方が私のことをご存知かどうかは定かではありませんが、神様が手を引いておられるならば自力で「神の道」を歩むことは可能でしょう。

いずれは、霊的にその方を知ることになるのでしょうが、実際にお会いするかはわかりません。

 

皐月の「上昇気流」は、あらゆるところに息吹を与えています。

我が家の、何の種を蒔いたのか記憶が定かではない鉢から、双葉が顔を覗かせました。

 

自分で種を蒔いておきながら何の花が咲くのかわからないのですが、とりあえず育ててみようと思います。

 

「努力」への誤解

この宇宙は「悪」を足場にした成長、「弥栄」を求める世界です。

「悪」は禍事を通して世に「学び」を与える存在であり、その克服によってより良い未来に繋がるのです。

 

これを例えるなら、宇宙とは学びや「修行」を志向する世界と言えます。

ただ人間は「楽」をしたいですし、なるべく苦労も浮き沈みも経験したくないものです。

 

だからこそ、現代まで人々は「自動化」によって「苦」の軽減を図ってきました。

それが現代文明であり、「金」と「機械」が人を動かしてきた時代です。

 

ただ「弥栄の世」となれば、「成長」が重要な意味を持ちます。

全てを「モノ」に任せて「楽をしたい」「努力したくない」という身魂があるとしたら、自分から「神世」に渡ることを諦めるかもしれません。

これが「神世」に渡らず、一定の人々が旧い宇宙に残ることを選択した理由に繋がるのではないでしょうか。

 

現代に至るまで、「努力」が社会や外部から強制される時代が続きました。

本来「成長」こそが宇宙の、人としての目的にも関わらず、「修行」の強制によって「学び」そのものが「悪」と受け取られてしまったのだと思います。

 

しかし、世に強制される「努力」は、本来あるべき「努力」ではありません

人はそれぞれ霊的に「成長」することで、より良い「霊界」に行くことを自ら志向する世界に生きているからです。

つまり、宇宙に遍く存在する生命は本質的に「成長」を求めるのです

 

この「履き違え」を、きちんと認識することが大切です。

また、人が正しく「修行」を受け入れるからこそ、世が「弥栄」たりうることも大きな意味を持ちます。

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