「夏至」のエネルギー

もうすでに先取りして、ここ数日で21日「夏至」からのエネルギーを感じ取っています。

 

以前、昨年「冬至」のエネルギーを「漢気」と表現しましたが、春分は「ポジティブ」と言えるものでした。

今回の夏至からのエネルギーは「変容」と表現できるかもしれません。

 

15日新月は、先月末の満月からの「選択と集中」のテーマに沿ったものであり、より「集中度」を高めるエネルギーとなっています。

21日の夏至は浄化のエネルギーが「宇宙的テーマ」と合流し、本質ではなく「様相」の変化、「あり方が変わる」ような流れになることが予想されます。

 

やはり、ここで「世界線の二極化」はまた一段上がるのではないでしょうか。

やや春分から「具現化」の度合いを深めた二極化は、私の目に見える範囲でも人々の言動に影響を与えていることが確認できます。

 

私自身、天から「大掃除」の手が入ってから考え方感じ方はもちろん、ライフスタイルも少しずつ変化してきています。

その「改心」も、夏至までに一定の成果を出さなければならないようで、急ピッチで「身魂磨き」を進めているところです。

 

このところの「変化」に関しては、抗おうとすればかえって停滞し、いずれ「後戻り」することになりかねず、多少意に添わなくともなるべく受け入れるべきかもしれません。

「改心」の仕方

日月神示「碧玉の巻・第六帖」には、こうあります。

「禍いと言うものは無いのであるぞ、光を忘れ、光に背くから嫌な事が起こるのじゃ、影が差すのじゃ、禍とか悲しみとか言う暗いものが無いのが誠であるぞ、中心は無と申してあろう、中心は見えんから、分からんから、外のカスばかり見ているから、つまらん事でつまらん事が起こって来るのぞ」

 

自分にとって「良くないこと」が起こる時、大抵は「外側」に原因を求めてしまいます。

事実としてそう思えたとしても、「霊的」に見れば自分の「気」から発せられた物事であり、言ってみれば身魂の「気の歪み」が顕在化したのが「禍事」なのです。

 

スピリチュアルの世界で語られる「引き寄せの法則」は、深いレベルで「因果応報」に繋がっています。

この「因果」を規定づけるものこそ「巡り」というものであり、つまりは「心根」の部分で引き寄せてしまう現象だということです。

 

「良いこと」も「悪いこと」も、ある程度コントロールできるとしたら、誰にとっても理想でしょう。

この「目に見えない原因」を変えていくことこそ「身魂磨き」であり、神示では「改心」とも言われます。

 

ただ「目に見えない」からこそ、努力して身魂を磨いているつもりが磨けていない、という現実にぶち当たることもあります。

「念」だけで気の歪みを直すには限界があるため、実際の行動としては「心口意」、つまり「腹の底から思うこと」「いつも言葉にすること」「常日頃からの行い」が三拍子揃う必要があります。

 

「心口意」1セットと考えて、改めの行動が積み上がるたび、「心根」の改心は少しずつ進んでいくのです。

そのため「気の歪み」を直すのは、想像以上に地味な「変化」を伴いながら進んでいくことになります。

 

だからこそ、「身魂磨き」は一朝一夕でならず、一足跳びに進むことのできない「一二三(ひふみ)」と言えるのです。

これを繰り返すことで、少しずつ「気の歪み」は正常に戻っていき、身の回りに起こることも変わってくるでしょう。

 

言ってみれば、これが最も手堅い「開運」とも呼べるのですが、良くないことを何かのせいにして、因果関係を「外側」に求めているうちは、掴むのが難しいかもしれません。

「政治の敗北」

今の世の混乱をもたらしているのは、悪人による「犯罪」ではなく「悪政」にあると言っても過言ではないでしょう。

我が国ならず世界中の国々に見られる現象ですが、「独裁国家」はもとより「民主主義」であるはずの米国ですらあの体たらくです。

 

結局「代議制民主主義」は為政者の社会階層を固定化し、今は実質的に「貴族制社会」と何ら変わりないものになっているのではないでしょうか。

かつての「貴族」だって、全く政治に関わりのない大衆からの「評判」は気になったでしょうし、世の混乱が自身の身を危うくするのに変わりはありません。

 

今の「政治するほど悪くなる社会」は、統治の仕組みとしての「政治の敗北」と捉えて良いと思います。

しかし、動乱の人類史において唯一の「落とし所」とも言える民主主義に出口がないとしたら、人類には「立つ瀬なし」という残酷な事実が襲いかかってきます。

 

ただ、現在の「代議制民主主義」の問題点は、「中央集権」の巨大化にある以上の要因はないように見えます。

 

世の「制度」を取り決める際、やはり少数の意思決定者が取りまとめる必要はあります。

ただし、この「取り決め」にまつわる利権が美味しすぎて、いつの間にか政治という「パイ」が大きくなりすぎるのが問題なのです。

 

実際に我が国も「小さな政府」と言いながら、政治家と官僚の手札は増える一方です。

誰しもここに原因があることはわかっているけれども、大衆に権力構造そのものを変える術はなく、建前としての「民主主義」を否定することはできないのです。

 

ただ、これまでの「代議制」にはトリックがあったということ、そして為政者たちがしてきた「欺瞞」が公になる時、モノは言っても何もできなかった大衆が「民主主義」を変えるタイミングは訪れるかもしれません。

 

少しニュースの裏を読んだだけで感じる「違和感」は、この可能性を現実のものとさせてくれる気がしてなりません。

私たち国民は「大衆はバカである」ことを願い信じきっている、政治を司る人々の思惑通りにならず、またさせないことが大切です。

とんでもない事実

少し前、「何の植物なのかわからないけど、芽が出た」という投稿をしました。

昨日、ようやく「謎」が解けたのですが、とんでもないことになるかもしれません。

 

これが「謎の種から発芽した植物」の現在の姿です。

 

 

写真にあるように、正体は「プランター用ひまわり」であり、この「種」はしっかり店舗で購入し、私が正真正銘蒔いたものです。

散々「身に覚えがない」と言っておきながら、全然「身に覚え」があります。

 

なぜこんな混乱が起きたのかと言うと、「種を蒔いたのに全く芽が出る気配のない鉢」をずっと放置していて、そこから出た芽を「ひまわり」の方だと勘違いしていたのです。

その鉢がこちらです。

 

 

この花は「ネモフィラ」ですが、種自体は1年半前に頂いたものを4月上旬に蒔き、「ああ、もう出ないんだな」と諦めて放置していたのです。

ただ問題は、この画面左側にある背の高い子で、実はこの子が「クヌギ」であることがわかりました。

 

昨年の晩秋、散歩がてら「めちゃくちゃ良いドングリ」を見つけたので部屋に飾っていたところ、春先に「芽」が出てきて(実際は根)、慌てて鉢に埋めたのも忘れていました。

これも日月神示にある「炒り豆にも花が咲く」というものかと感心していたのですが、よくよく考えるととんでもないことだと気づきました。

 

マンションのベランダでクヌギの木が育ち始める」というのは、冷静に考えると心配になってきます。

まさか神様が「クヌギが大きくなる前に家を持てよ」と仰っておられる訳ではないよな、と戦々恐々としてしまいます。

神に「裁き」なし

日月神示では「神は裁きを与えない」と述べられますが、「黄金の巻・第十八帖」にも、こう書かれています。

「天国の門は貧者、富者の別ないぞ、別ある境界つくるでないぞ、世界中一度に揺すぶると申してあろう、釦ボタン一つででんぐり返ると申してあることまだ分からんのか、神罰は無し、道は一つ二つと思うなよ無数であるぞ、新しき道を拓いてあるのに、何故進まんのじゃ」

 

神は「裁き」を与えないのですから、当然「罰」を与えることもないのでしょう。

「裁き」とは「有罪」か「無罪」かを選択することしかできないため、本来「二つの道」を示す他ありません。

 

確かに、神はそうした「裁き」を人にお与えになることはないのだと思います。

ただ、宇宙には「因果応報」という規則が働くため、一つの「行い」に対する「報い」が「無数」にあると考えれば、この文脈に矛盾はありません。

 

逆に言えば「神の裁き」が存在しない代わりに、全ての「悪行」に対して「報い」が与えられるということでしょう。

つまり、実質的には「等しく裁かれる」のと同様です。

ただ、この「裁き」の主体が「神」ではなく「宇宙に包括された自分」であることは、重要な意味を持ちます。

 

これまでの世は、悪が「闇から闇へと逃れることができた」と神示にはあります。

言わば「因果応報」は「自分で逃れられる性質のもの」であり、神示の言い方に変えれば「借銭」は「返さない」という選択もできたということでしょう。

 

それなら、借金をして羽振りが良くなり、その勢いで「力」をつけた者はますます借金を重ね、ただし利子や元本返済の滞納を続ける、ということもできたはずです。

それでは、正直にローンを返す人は元より、真面目にコツコツ預金をし続ける人にも「不公平感」が生じるのは当然です。

 

こんな仕組みがまかり通っていたのですから、長い間「闇の世」になってもおかしくないでしょう。

そして、天は「悪質な多重債務者」へ「裁き」をお与えにならない代わりに、これからルール通り「借銭済まし」を強制執行することになるのではないでしょうか。

 

そして、「返済する意思なし」「返済能力なし」と判断された債務者は「自己破産」に該当し、「宇宙銀行の口座を凍結する」という対応に至るのかもしれません。

そうなれば、「二度と世に出ることはできず」「身魂は灰になる」ことの記述の意味も通ります。

 

ここまで来ると「自業自得」、まさに「因果応報」の仕組みそのものだと思います。

「双子の成長期」公開

「招神万来」の方に、今月15日「双子座新月」「21日夏至」辺りの話を書きました。

 

双子の「成長期」

 

最近は「禅寺」で修行をしているような毎日を過ごしているため、なかなか周りが見えない状況が続いていますが、先日の投稿にもあるように「やることが同じなら結論も変わらない」という強引な解釈で押し通すことにしました。

 

正直、今の世に対しては別垢を作ってでも論評したいのは山々なのですが、神様は少なくとも私がやることではないと考えておられるようなので、この記事でもその部分をモヤッと表現するのはとても心苦しかったのですが、ここは割り切るしかありません。

 

近況としては、当面「禅寺」で問答を行うような日々は続きそうです。

この不透明な情勢で生きるヒントとして、私の体験も何かしらお役に立てるかもしれず、その知見も含めて詳しく書いています。

どうぞご覧ください。

「大望」を果たす

今、政治の世界は「地獄的様相」を呈し始めているように見えます。

報道やメディアは事実をまろやかにコーティングし、絶妙に問題の浅い雰囲気を醸成していますが、この違和感が妙に「不穏」と感じられます。

 

こうした不透明な「危機」が、氾濫する娯楽と情報の裏で広がっています。

この不穏な空気に気づける人なら、「大峠・八合目」という表現にも違和感を抱かないのではないでしょうか。

 

私は、世に対する「批判」を弱め、「天国的世界線」へ至る判断を選んだことに、今でこそ間違っていなかったと感じます。

 

この「世界線の二極化」において、大抵の人は目に見える「危機」に心が支配されてしまいます。

しかし真の「危機」だからこそ、新しい時代を作る側にとって、あえて平和な「日常」へ回帰することが重要だったのです。

 

今の世界へ「逆張り」を突き通すのは、並大抵のことではないと感じています。

そのため「胆力」が求められてきましたが、今となっては「誰一人ついて来なくてもやり通す」決意が固まりつつあります。

 

一年半前、私が「招神万来」を書き始めた頃、今後見る人が「一人」いれば良いくらいの気持ちでした。

むしろ、どんな状況も神の御考えなのだとしたら、その御旨に従う以上に私がやるべきことはないのです。

今も「やることは変わらない」という感覚のため、なるべく結果を求めないというスタンスを取り続けています。

 

私には「大望」があります。

まず、日本人が「あるべき姿」を取り戻し、本来の生き方を思い出すこと、その姿は世界中の人に影響を与え、この世界はきっと良くなっていくことでしょう。

 

この「大望」を叶えるために「どうすれば良いか」は、神様にしかわからないことです。

そのため「人間心」でやり方を決めていては、「大望」を果たすことはできません。

 

「招神万来」は、瀬織津姫様とのお約束があったからこそ、あらゆる結果を無視して続けることができました。

そのスタンスは今も変わらず、これからも変える理由はありません。

だからこそ、私は「たった一人でもやり通す」つもりでいます。

 

世の人から見れば、私のすることはとても大丈夫そうには感じられないでしょうが、この世界を「真逆」の方向に引っ張るためには、どうしても必要なことです。

今いる読者の方をしっかり「天国的様相」の世界へ向かわせるためにも、逆に「孤立」を恐れない胆力こそ、私には求められていると感じるのです。

「懺悔」と「感謝」

今、個人的に天からの「大掃除」が進んでおり、まるで「禅寺」で一人修行しているかのような気持ちさえ覚えています。

 

人は思うより「我とはわからない我」に囚われており、これまでそうした「未熟さ」は、天から「大目に見て頂いていただけ」であったことが痛いほどわかりました。

「我の罠」とは、自分が真剣に改善に取り組んでいるからこそ、努力への「自負」が「買い被り」に繋がってしまう、恐るべき「慢心」です。

 

日月神示「月光の巻・第五十九帖」には、こう書かれています。

「そなたは動機が善ならば失敗は薬と、我われの都合の良い様に、我われと我を弁解して御座るなれど、弁解したのでは薬にならん、毒となる事あるぞ、省りみよ

 

宇宙の本質も、人生の目的も「成長」にあるのだとしたら、「成長できるのは良いこと」と考えて行ったことの失敗も、まるで「良いこと」のように錯覚してしまいます。

しかし、天から見れば「弁解するくらいなら、最初から失敗するようなことをするべきではない」と、それこそ道理であると仰りたいのだと思います。

 

ただ、この「正論」は人間にはあまりに「劇薬」すぎる「薬」のため、苦すぎて飲み込むことが難しい代物です。

そうは言っても、それほど上手くはいかないもんでしょうよ、神様」と、口答えしたくなるほどです。

だからこそ、ここに「我」が潜み、「慢心」が首をもたげて成長の邪魔になっていたりするのです。

 

こうした「我とわからない我」と向き合う行為は、まるでお寺で精神修養でも行なっているかのようです。

ただ神に頭を下げつつ、自身の身の丈を見つめる作業は、世界中の宗教のあり方に通じている気がします。

 

人間は「神」の御前で至らぬ行動にあったことを「懺悔」し、それが天の「慈悲」で許され、また生かされていることに「感謝」する、こうした理念は世界中に見られます。

この「神と人」の構図が、あらゆる宗教形態に普遍的に見られることは、「真実=誠」の証左なのではないでしょうか。

 

「神の道」とは、あらゆる宗教を貫く「理(みち)」、いわゆる「理論」です。

だからこそ、理論通りにやれば他の宗教に似通ってくるのは、宗教的生活こそ、神の理の「実践」であるからであり、それは「一二三(ひふみ)」であっても同様なのでしょう。

 

人間はどうやっても最初から完璧にこなすことは不可能ですし、ずっと謙虚であり続けるのも難しいことです。

だからこそ、自分の身の丈に対する「懺悔」と「感謝」の気持ちは、過ぎるほど持っていても足りないのだと思います。

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