「HARAEDO」オープン

神様創作シリーズ「HARAEDO」専用のサイトを開設しました。

 

HARAEDO

 

過去の、影も形もない頃の試作から最近の作品まで、一挙にまとめました。

とりあえず「解説」などの内容は、これから充実させていく予定です。

またサイトの仕様も急ごしらえなので、重ねて調整していきます。

 

今後の予定としては、だいぶ前に8割方作って放置していた「せおりつ姫のおみくじゲーム」と、おまけのDLコンテンツなどを充実させていきます。

なるべくお子様に安心してご覧いただけるサイトにしていきたいと思っています。

HARAEDO

Index

どうぞ今後ともよろしくお願いします。

神様から見た「悪」

日月神示では、「神は怒ったら神の座から外れてしまう」と語られています。

 

岡本天明翁が「耳」に聞いて書いたとされる「地震の巻」では、神が善も悪も等価、「歓喜」として捉えていることがわかります。

しかし、神々がそれでも「悪」を勧奨なされないのには、理由がある気がします。

 

「天之日月神」こと伊弉諾命は、「風の巻・第八帖」の中で「人民には一日も出来そうにない行の、三千年は相当のものだぞ」と述べられています。

 

私はやはり、神様ですら人間の悪行を直視し、この世の隅々まで祓い清めていく「御神業」は「苦行」なのだと思います。

悪人の残虐非道をつぶさに見ながら、ひたすら怒りを抑え「許す」という行に徹する三千年こそ、神々にとって明白な修行期間だったのかもしれません。

 

私の印象でも、神様は悪人が怒りの対象ではないにせよ、どちらかというと「お嫌い」であられるのは間違いないと思います。

それでも「悪」をこの世から消し去ろうとなさらないのは、例えば「ウンコ」が臭いし汚いのと同様で、私たち人間もウンコが臭いからと言って腹を立てないのと同様でしょう。

 

そもそも「ウンコ」は臭いものであり、それ自体どうこう言えるものでもありません。

だから神様方の感覚だと、人間の後ろをついて回ってトイレ掃除をひたすらやり続けるに等しい行だったのではないでしょうか。

伊弉諾命は、これを三千年続けたとされますから、大変なご苦労です。

 

同じように、私たち人間も「悪人」に対して「怒り」を抱かなければよく、別に「嫌い」であっても構わないのだと思います。

やはり悪は「必要悪」なだけで、横並びに手を取り合うべき相手でないことに変わりはありません。

 

「悪を抱き参らせよ」と、どちらかというと悪の肩を持ちがちな日月神示の教えですが、神々も一応「悪はお嫌い」という点を推し量れば、何となく神様方の御心情に近づけそうな気がします。

「大峠」の渡り方

日月神示の「黄金の巻・第十八帖」に、「世界の民が皆一度に改心する様にどん詰まりには致す」と述べられています。

今、まさにどん詰まり中のどん詰まりという印象ですが、おそらく文中のニュアンスからすると「まだまだ序の口」という感じではないでしょうか。

 

最終的に世がどこまで行き詰まるかについて、神示の中の激しい表現を侮るべきではないと思います。

 

現在、物価高と不況で、もうすでに生活が苦しい人が出始めています。

こうした弱い立場の人はより苦しい立場に置かれていますが、世を締めつける側の人々はますます活気づいている印象すらあります。

 

こんな非対称な世の中は、さっさとケリをつけて欲しいものなのですが、神様でさえ「時節」には逆らえないのでしょう。

結局のところ、世が落ち着くところは定まっているにしても、それまでどうやり過ごすかも問題です。

私自身「2029年には光が差す」とお伝えしていますが、逆に「あと3年は苦しむ」と言っているも同然なので、心苦しいのが正直なところです。

 

かと言って、「これから時代はこうなる」と予言を散りばめたところで、何の慰めにもならないことはわかっています。

だからこそ、世の趨勢に抗うのではなく、苦しい立場に置かれている人たちをどうにか助けることができないかと考えたのです。

 

私の手足を使って、具体的に何かしてあげられる訳ではありません。

けれど心の支えになったり、元気づけるような力にはなれると思います。

 

人それぞれ、人生のテーマがあり課題があります。

この「大峠」は、誰によらず輪廻転生を繰り返した全ての魂にとって「大決算」の時であり、誤魔化すことが許されないものです。

 

下手に甘えがあってはならない状況だからこそ、私自身が各々の足で峠を越える妨げになってはいけません。

だから、私はあくまで「背中」を見せるだけの存在でありたいのです。

一人で始める「国造り」

私の所属する「奥山」に、人が集まって来ているのは事実だと思います。

しかし、そこにいる人たちが実際に私のことを知っているとは限らず、またお互いの存在を知覚できている方もあまりいらっしゃらないかもしれません。

 

「招神万来」の方で、「真の統一とは、一つの理念を共有してまとまることである」と書きました。

今の奥山には、おそらく明確なスローガンはなく、集団としてのまとまりには欠けているのではないでしょうか。

 

まず、身の回りを「天国」にすることが、新しい時代を作る上での最優先事項です。

次の時代が「霊界」同様となるなら、自分の「波長」がそのままのコミュニティを形成することになるからです。

 

そこで、私は自分の「大奥山」を切り拓いて、私の力が及ぶ「天国」を造ることにしました

私の気場の中では、私自身の力で集まる人をまとめ、守ることができるからです。

 

ここで共有される一つの世界観や理想が多くの人を癒し、心の支えとすることが出来るのではないかと考えました。

 

私に天から与えられた第一の使命は、「神と人を繋げること」です。

その足掛かりとなる場をまず造る必要があり、これが私の「国造り」なのです。

ニューアナログの時代

デジタル全盛の時代、「AI革命」とか騒がれているご時世で、「アナログの再評価が起こる」と言えば、失笑を買うかもしれません。

 

デジタルという平面の世界は、データの希少性、通信速度、情報の質という「伝達性」以外の面でプライオリティを求めるのは難しい分野です。

また、電子機器の製造に関しても、規格が特定の寡占企業に特化している現状、経済合理性や産業としての多様性の面で、そろそろ頭打ちなのではないかと感じます。

 

アナログの世界というのは実際に形があって重量もあり、光沢や質感、感触や匂い、「モノ」としての個体性も存在し、「商品」として捉えても情報量がデジタルとは雲泥の差があります。

 

もし自分のサービスに「オリジナリティ」やプレミアムを求めるなら、安価でコピーと加工が容易なデジタルの世界には、やはり限界があります。

「独自性」を最大のウリとするためには、アナログの持つ複雑性に求める方がどう考えても合理的です。

 

私はこの「回帰」への潜在的な需要が、現段階でマグマの如く存在するのではないかと思っています。

しかし誰もがスマホで用を済ませる時代だからこそ、そういったニーズが表面化しにくいだけではないでしょうか。

 

ここに産業の空洞化と、実体経済の衰退という現実があるのですが、長期的な視野で経済合理性を求めるならば、完全な代替ではなくともアナログへの移行は避けられないように思います。

 

例えば、個人事業者の製品やサービスに調達する機材も自家製とか、特殊なノウハウの人脈があるからできるビジネスなど、地場産業がニッチ化することで経済全体に多様性が生まれます。

そこで発揮されるビジネスの独自性は国際的に訴求力も高く、「唯一無二」に近いプライオリティを持ちます。

 

かと言って、電子制御技術も所々で応用すれば良いわけで、「ニューアナログ」への時代的な流れは、経済的合理性を鑑みれば必然であるように思います。

「大奥山」の道

3月20日の春分以降、ガラっと体感が変わった方も多いかもしれません。

私も考え方だけでなく、行動習慣にも大きな変化がありました。

その一つが、「絵語」を始めたことかもしれません。

 

私の「悪い癖」は、常に「人目」を気にすることにありました。

言ってみれば「見栄っぱり」という性格と向き合うことが、ここ最近のテーマの中心にあったのです。

 

人の目を気にせず自分を貫く」というのは、往々にして誰からも相手にされなくなるものです。

大体の人はその孤独感に耐えきれず、またそれほどメリットも感じないため、衆人環視に迎合する道を選びます。

 

しかし、ここで「自分は自分、他人は他人」という割り切りを徹底するのが「祓い清め」なのです。

孤独感と向き合い、社会的な孤立を乗り越えて「自分」たろうとすることに「自己の純化」があり、それが「神の道」を歩むことになります。

 

これを実践すると、次第に世を捨て「人間離れ」していかざるを得ないことに気がつくはずです。

そこまでして、神と人の境目の領域「奥山」に入っていくことができます。

 

そして、「人間」としての自覚を捨て去り、自分の身の回りに「神」が存在することを知覚できるようになる場所、そこが「大奥山」です。

人の世から離れたことの孤独は、周りに存在する「目に見えない者たち」との絆によって、完全に代替されるのです。

 

これは正直、かなり厳しい修行と言えます。

実際に味わう孤独感もさることながら、人間社会でやっていく自信も無くなり、逆に「どうやって生きていくか」に悩みます。

だから「やってみたい」くらいの気持ちでは、殆どの人が耐えきれないと思います。

 

私はここで悶絶する毎日を送っていますが、それでも「出口」は見えつつあります。

「神と人」が一体となることは、「宇宙」とひとつになるに等しいのです。

 

日月神示にもあるように、その境地まで達すれば草や木や空も「」であり、見知らぬ人も悪神も「自分」と言えるようになります。

そこまで辿り着けば、「孤独」は孤独ではなくなるのです。

 

また、常に「神」が側にいて下さる、そんな感覚は人間社会で育ちながら「神社会」の中に生き、神々の中に居場所を見つけることでもあります。

「古い自分」を脱ぐ

昨日から、星回り的には「蠍座満月」は始まっているそうです。

 

今回の月の浄化が、蠍に因んで「脱皮」、すなわち「古い自己からの脱却」を意味するとお伝えしています。

これは霊性変化だけでなく、実際に「考え方」そのものにも変化があると思います。

 

この時期を境に、少し行動習慣が変わるとか、ものの見方が変わるということもあるかもしれません。

ご自身で自覚できるのは小さな変化かもしれませんが、これが後に大きな変化に繋がっていくのではないでしょうか。

 

自分に染みついた考え方は、わりと「悪癖」に結びついていたりするものです。

このしぶとい悪癖こそ、しばしば自分の今生を貫くテーマに繋がっており、この克服自体が人生のテーマと言うこともできます。

 

自分に染みついた考え方、そこから生じた人生の悪循環に改めて気がつく時、「変化」は始まります。

この変化は、これまでの人生を形作ってきた習慣が変わることを意味するため、「新しい自分」になることに等しいのです。

 

この時期の少しの変化が、後に大きな境目となるかもしれません。

だから、この時期に新しいものの見方に気づいたら、注意して心の変化に目を向けてみてはどうでしょうか。

「悪神の大将」について

日月神示「星座の巻・第十五帖」に、天を司る皇祖神の一族が、本来「十二柱」であったことを示す一文があります。

 

十二人が一人欠けて十一人となるぞ、その守護神を加えて二十二柱、二十二が富士じゃ、真理じゃ、また三であるぞ、今までは四本指八本指で物事を計って誤り無かったのであるが、岩戸が開けたから親指が現われて、五本十本となったのじゃ、この事よくわきまえよ」

 

「一人欠けた十一人」が、現在まで生き通しの「元つ神」の総数であり、「国常立大神=大地震の神」と「雨の神」「風の神」などの9柱、そこに「スの神(・)」を加えての11柱になります。

 

「守護神」とは、「欠けた一人」でもある「天御中主神」であり、「天地」そのものを御玉体となされる大神です。

しかし、新たに「二十二=富士」の守護に就かれるのは「別の天御中主神」こと「大日月地大神」であられるのでしょう。

 

また、別の見方もできます。

「欠けた一人」を「泥海の頃から生きている悪神」とすれば、悪神の総大将を抜いて10柱の龍神と「スの神」を合わせて「十一人」とすることも可能です。

 

「悪神」の定義は、おそらく「◉(カミ)」の性質を失い、「◯(ミ)=物質偏重」となることにあります。

「・(ヒ・キ)」は、ズームすると厳密には「◉」の形となっていますが、「・(火)」の中にも「◯(水)」の性質があり、それが「身」となっているのです。

従って、いくら「◯」偏重となっていても、そこには「・」の要素があり、「ガワ」が本質となっていると言うこともできます。

 

もし「悪神の総大将」が不具の神としてご誕生なされた「ヒルコ神」なのだとしたら、神として生まれながら不完全な己を呪い、完全な神として自らを産まなかった親神を恨んだかもしれません。

その「復讐心」が現在の闇の世に繋がっているとしたら、「偽神」による災いにも一応は筋の通る説明がつきます。

 

私たちが人として生きていく中では、親の社会的立場や自分の境遇を呪うことは、わりと誰もが通る道なのではないでしょうか。

この気持ちがわかる私たち人間なら、神に仇なす者たちの怒りや、悪神の憎しみを理解できないはずはありません。

 

ここで「悪」に対して理解を示し、同情の心を向ける、そのことで悪に「抱き参らせる」余地が生まれるのかもしれないのです。

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