「クヌギちゃん」

ひまわりを植えたと思っていた鉢の植物が”ネモフィラ”で、ついでにドングリから”クヌギ”の木も生えてきた」の続編です。

 

 

「クヌギちゃん」がどんどん大きくなって、らしくなってきました。

もうそろそろ、鉢の替え時かもしれません。

ネモフィラちゃんとは、今のところ仲良くやってるみたいです。

 

 

この子が、ずっと勘違いされていた「小型ひまわり」ちゃんです。

長梅雨の寒さで一時萎れてしまったのですが、このように元気に復活してくれました。

 

最近、身の回りの電化製品が次々と壊れ、「娯楽」というものから遠ざかっているのを実感していますが、植物とふれあう時間だけが唯一の楽しみという、仙人なのか囚人なのかわからない生活を送っています。

どうも私は、そろそろ本当は自然に還りたいと感じ始めているのかもしれません。

「日月の民」

日月神示「雨の巻・第二帖」からです。

天の太神様は慈悲深くて、何んな偉い臣民にも底知れぬし、地の大神様は力あり過ぎて、人民には手に負えん見当取れん、そこで神々様をこの世から追い出して、悪神の云うこと聞く人民許ばかりとなっていたのであるぞ」

 

「天の太神様」とは、私たち日本人から見ると「伊奘冉命」として御存在を捉えることができます。

「地の太神様」は言わずもがな「伊弉諾命」ですが、ここでの御神格は「素戔嗚命」とも呼べるでしょう。

 

二柱神を「太神」とする時、厳密には「豊雲野大神」と「国常立大神」に当たるのですが、「大神」としての御存在を人間が認識する際には、「神」として引き下げられた段階で御顕現なされるようなのです。

 

あくまで私の印象ですが、伊奘冉様は何でも「いいよいいよ!」と仰るくらい、底抜けに寛容すぎて、如何なる「悪」に対しても優しすぎるのかもしれません。

伊弉諾様は、日月神示の文章そのままのイメージのお方で、「子」である人間に対して厳格な「父」としての態度で御指導なされるため、人間からすればかなり厳しく感じられるのでしょう。

 

どちらの太神様も「底知れぬ」と感じるほど、人間のスケールを遥かに超えた価値観で物事を動かされるため、私たち人間には見当がつかないように思えてしまうはずです。

二柱の太神様の御力はそれほど強大であるため、夫婦神の間を取りもち、人間に寄り添うスタンスの強い御子神の「撞賢木向津姫命」は、人間から見れば「心のオアシス」そのものだったのかもしれません。

 

「天の太神様」が「寛容さ」の象徴であり、「地の太神様」が「厳格さ」として人の心に映るならば、確かに人からすれば矛盾したものに思えるでしょう。

ただ、ここでの「寛容さ」は「他人」に対してであり、「厳格さ」を「自分」に対して向けるべきとするなら、そのあり方は「神の道」に通ずるはずです。

 

「自分には甘く、他人には厳しい」という姿勢が今の世に蔓延しているからこそ、息をするのも苦しい社会を作り出してはいないでしょうか。

ゆえの「闇の世」とも言えるのですが、「神の道」に準ずる「日月の民」は、天のように他者に寛容であり、地のように己に厳格であるべきなのです。

 

この実践こそ「一二三」であり、「自分は自分、他人は他人」という信念を貫くことが「祓い清め=神の道」なのだと思います。

「悪への対処法」公開

「招神万来」の方で、「悪への対処法」という記事を投稿しました。

 

「悪」への対処法

 

今回は、かなり難しい内容になってますし、込み入った話ですんなり読めないかもしれません。

ただ、「善悪二元論」を超えるという往年ね哲学的な難題に、一つの回答をもたらすと自負しています。

 

また、抽象的な話だけでなく、現実の対応方法も具体的に説明しています。

だから、この記事は特にじっくり読んで頂きたい内容となっています。

よろしければ、時間をとってご一読下ると幸いです。

「信仰」という成長

神が人を作り給えた時、予め人間を「神の存在を疑わないもの」として定義することもできたはずです。

そうすれば、天に唾を吐くような者は生まれず、今日のような「唯物主義」、それに伴う「金の世」にもなり得なかったでしょう。

 

この世界に存在するものは全て、「大神が許し給えるから存在する」と神示には語られています。

つまり、天は「神を唾棄する”自由”を人間にお与えになられた」とすら言えるのです。

 

なぜ神は、自ら命を与えたものたちに「冒涜」をお許しになられるのでしょうか。

それは、「神の存在を疑わない」という境地に至るまでの「信仰心」の段階として、「神の存在を信じない」という落差を「遊び」としてお与えになられたからだと思います。

 

つまり、「信仰心」を持つこと自体が「人間的成長」であり、「無神論」は「学びの状態」の一部と言えるのです。

この「落差」こそ「悪」と呼べるのですが、底知れぬ「地」があるからこそ登りうる、「天」への果てしない「道」の象徴かもしれません。

 

「神など存在しない」という見解がある時、それは「結論」ではなく「神の存在を学ぶ」一つの過程と捉えた方が良さそうです。

その「学び」が今生ではないとしても、人間が神に生み出された存在である以上、いつかは「神の存在を悟る」という宿命から逃れることはできないのでしょう。

「悪の三大将」について

日月神示「地つ巻・第十八帖」には、「悪の三大将」の正体について記述されている箇所があります。

「元の二八基じゃき光理こり湧いて出た現空げすの種は、二八基と大老智おろちと四通足よつあしとなって、二八基には二本の角、大老智は八ッ頭八ッ尾、四通足は金毛きんもうであるから気付けておくぞ、四通足はお実名に付いて分けているから、守護神殿、臣民殿騙されない様に致して下されよ」

 

字を変換すると「元の邪気が凝り(固まって)湧いて出た下種の種は、邪気と大蛇と四つ足である」となります。

「二八基」とは「八方世界」に存在する「鬼(悪い気)」を意味し、「大老智」は「智=ナギの神」の治める地界の悪神、「四通足」は「金毛=悪狐」を指すと考えられます。

 

気になるのは、本文の「当て字」に「光」や「智」など、天地の大神に紐づく単語が付けられている点です。

これは素直に、「悪の三大将は大神の生み給いし存在であり、また大神の一部である」と解釈して間違いないでしょう。

「騙されるなよ」というのも、「彼らも神の現れの一部なのだから、決して憎んではならない」という意味なのではないでしょうか。

 

今、世に蔓延る「霊ガカリ」や魑魅魍魎による霊障、それに伴う禍事ですら「大神の御働きによるもの」と考えるのは、直感に反するかもしれません。

しかし現在の「悪の隆盛」こそ、全宇宙を通した「悪を抱き参らせるための試練」と考えれば、全てが「大神」の胎内で起こっている「通過儀礼」とも言えるのです。

 

「三千世界の大洗濯=大峠」が、全宇宙を内包する「天御中主神」の「心理的成長」を意味するのだとしたら、「葛藤の象徴」として「悪神」が大神より生み給われたと考えることもできます。

そうだとしたら、今の世に蔓延る悪事を「社会問題」として捉えるには、あまりにスケールが小さすぎるかもしれません。

 

「大峠」が佳境に差し掛かった時、全ての「謎」が明かされ、あらゆる伏線が一つになり世界の真相が解明されていく、そんな気がするのは私だけでしょうか。

富士の巻・第二十三帖

日月神示「富士の巻・第二十三帖」より。

世界は一つになったぞ、一つになって神の国に攻め寄せて来ると申してある事が出て来たぞ、臣民にはまだ分かるまいなれど、今に分かって来るぞ、覚悟は良いか、くどく気付けておいた事の愈々が来たぞ、臣民一人一人の心も同じになって居ろうがな、学と神の力との大戦ぞ、神国の神の力現わす時近くなったぞ、

今現わすと助かる臣民ほとんど無いから、神は待てるだけ待っているのぞ、臣民も可愛いが元を潰す事ならんから、いよいよとなったらどんな事あっても、ここまで知らせてあるのだから神に手落ちあるまいがな、いよいよとなれば分かって来る事なれど、なぜ知らせないのかと文句を申すが、今では何を馬鹿なと申して取り上げぬ事よく分かっているぞ、因縁の身魂にはよく分かるのぞ、この神示読めば身魂の因縁がよく分かるのぞ、

神の御用する身魂は選り抜いて引っ張って居るぞ、遅し早しはあるなれど、いずれはどうしても逃げても、イヤでも御用させる様になって居るのぞ、北に気付けよ、東も西も南もどうする積りか、神だけの力では臣民に気の毒出来るのぞ、神と人との和のハタラキこそ神喜ぶのぞ、早く身魂を磨き、悪い心を洗濯せよと申す事も分かるであろう

 

今、日月神示が「わかる人にしかわからない」状態に敢えてしてあるのは、神の救いを望む人だけに見えるようにしておきたいのだと思います。

あまり好きな言い回しではないのですが、「自己責任」とも言えます。

 

要するに「迷路の中で、地図を各々が見られる状態にしてあるのに、自分で地図を見ないようにして迷っているのはどうしようもない」ということだと思います。

人からすれば冷たいように思えますが、天が「人を成長させたい」と思うからこそ、手を取り足を取り、全員を歩かせてあげる訳にはいかないのでしょう。

 

ちなみに本文の「北」というのは「ロシアを指すのではないか」と推測されがちですが、「五葉の巻・第二帖」には「霊界に方位は無い、人民は東西南北と申しているなれど、今に東の東が現われるぞ、霊界では光の射す方が北じゃ、その他の東西南北は皆南じゃ、北が元じゃ、北良くなるぞと申してあろうがな」とあり、「◉」の「・(キ)」が北ということだと思います。

そう考えると「神の国に攻め寄せる一つになった世界」とは「◯(外国・東西南北の国々)」ということになるはずです。

「まさに」という印象がありますが、如何でしょうか。

本当の「戦」

身魂の「大掃除」をするうちに、人が知らずのうちに腹に抱える「負の念」は、様々な形態を持つことがわかってきました。

それこそ「悪魔」のような、人格に近い霊体を持つ思念、「動物」のような情動しかない霊体、「虫」のように機械的に動く邪念、単に「邪気」を放つだけの念の塊、まさに「ゴモク(五目)」と言うに相応しいラインナップです。

 

なぜ今、天から「大掃除」を求められ、私たちがこれらを徹底して腹の中から追い出さねばならないかというと、次元上昇と共に宇宙が「霊界化」し、世界線の「二極化」が進む先の世界では、強烈な「引き寄せの法則」が働くからでしょう。

つまり、「天国的世界」を構築し「神世」の礎となる人たちにとって、「幽界的思念」は招かざる不幸を呼びかねない「リスク」になり得るということだと思います。

 

天からの導きとは言え、単に「身魂磨きをせよ」と促されても、自分のことだし実感の薄いものでもあるので、本気で取り組む意欲は湧かないかもしれません。

しかし、将来的に「負の引き寄せ」を起こしかねない要素は持たないに越したことはなく、自分の波長が誰かを傷つけたり不幸をもたらしたりしないために、今ここでリスク要因を取り去ることが、いずれは自分ならず「人のため」になったりするのです。

 

争いの絶えない世を終わらせるための「戦」があるとしたら、世の礎となる私たちが自分自身との「戦い」を終わらせられなければなりません。

つまり、これこそが私たちにとって本当の「戦」なのです。

 

まして「神の道」を踏む以上、「神様に御無礼が及ばないように」と考えると、生半可にはできないように感じます。

私自身「祓い清め」が出来ていないようでは、神様への面目が立たないからです。

一定の「成果」

昨晩、夢を見ました。

風呂釜のガンコな汚れが取れず、特殊装置を導入して試そうとする夢」です。

 

昨日「過去を乗り越える」という記事を投稿してからの、タイムリーすぎる夢です。

これは、「まだまだゴモクが取りきれておらんぞ」という神様からの思し召しとしか思えません。

 

私としては、だいぶ楽になってきたので「終わるわwww」みたいな気持ちだったのですが、ここに来て「まだまだ」というメッセージを送られるのは、神様らしいと思ってしまいました。

 

どうもこの流れを考えると、「夏至」の到達点は「ステップ(踊り場)」、おそらく30日「山羊座満月」あたりでようやく一段落・一段上がる、という感じだと思います。

 

「山羊座」は「目的」や「成果」と関連が深い星座です。

7月29日の「水瓶座満月」までのひと月の間に、身魂の「掃除洗濯」は一定の「仕上がり」を求められるのかもしれません。

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