もう一人の「自分」

最近、自分の霊性変化の激しさから、なかなか落ち着きのない日々を過ごしています。

 

人はこの世で生きながらにして、「霊界」にもう一人の自分を置いています。

それが「大我」とも言えますが、もう少し複雑で「霊人」としての自分と解釈できます。

 

この「霊人」としての自分は、現実世界とも関わりを持ちながら霊の領域を飛び回っていたりします。

眠っている時に見る「夢」は、霊人の自分とも関係があって、時に違う世界のことも垣間見せるのです。

 

この「霊人」としての自分が活動を増すほど、肉体としての自分は「留守番状態」となります。

その霊的に無防備な状況を見計らって、魑魅魍魎が肉体を乗っ取ろうとけしかけて来ることもあります。

 

この「留守中」に、邪気から肉体を守るのが「小我」の役割です。

まさに「霊」が宿る「神の宮」を守っている、肉体の「守護神」と言えるでしょう。

 

今、神に仇なす者たちが、あらゆる手を尽くして「肉体」を乗っ取ろうとしています。

この危険を過小評価せず、私たちは日常の中で気を引き締めて生活することが大切です。

特に今は、時期的に「霊人」としての活動に重点を置く人々が多いからです。

今の神々について

今年に入ってから、神様方はかなり殺伐とした雰囲気の中にあると感じていました。

その感覚は「イラン戦争」という形で具現化してしまった訳ですが、「大峠の胸つき八丁」に入ったのですから、神々も本気モードということなのだと思います。

 

私だけでなく、日々が何となく苦しく「3年後と言わず、今すぐケリをつけたい」と思う気持ちは誰しもあるでしょう。

しかし、私たちが苦しい時は神様方も苦しんでおられ、まして「三千年」世に落ちておられた伊弉諾命が、その時を最も心待ちにしておられるのではないでしょうか。

 

しかし、この大建て替えの要である伊弉諾命が私情で動く訳にも行かず、その御心の辛さは私たちが真っ先に汲み取るべきなのです。

私たちがいくら苦しいからと言って、時節を待たずして仕組みを変えて頂くこともできないからです。

 

おそらく順序として、神世に進む側の人々の「借銭返し」の方を先に進めなければならないのだと思います。

実際に「苦」を伴わなければ、カルマの返済にはならないからです。

 

今の「膠着状態」は、借銭返しの「順番」として現れているだけで、現在「岩戸閉じ」をする側の人々は、その仕組みに「協力」して下さっているのだと思います。

これこそ「悪の御役」であり、いずれは彼らも等しく「借銭返し」のターンが回って来るはずです。

 

こうして見ると「岩戸閉じの御用」とは持ちつ持たれつの関係と言えます。

霊界から世を立体的に眺めてみなければ、彼らに対する憎しみで乗り切ろうとしてしまうでしょうが、こうした見方がこれからの世では大切になってくるように思います。

神の「愛」

私の感じるところ、神様は人間と同じような感じ方、考え方をなさいます。

神々は人間と住む世界、見ている次元が違うため、まるで人間とかけ離れた感覚を持っておられるように感じてしまうのです。

 

神様は誰でも遍く「愛情」を注いでおられますが、特に神への信心と素直な心を持つ人を気にかけられます。

その愛は、子供に注ぐ親の愛そのものであり、もし心の繋がりを感じることが出来れば、人と人との関係以上の温もりがあることに気づくはずです。

 

神からの愛情は、自分の心が揺らがなければ外れることはありません。

だからこそ、自分が求める限り「絶対の愛」であり続けるのです。

 

ただ残念なことに、人類の遍く「御親」たる神の存在を知らず、大体の人は人間同士でしか愛を求められないと信じ込んでいます。

人間の関係は不安定にも関わらず、そこに「絶対」を求めるあまり、かえって壊してしまいかねないことすらあります。

 

「目には見えない存在」と言えば、人は「妄想」だと考えます。

人間が「物質」という半面の世界に押し込められる存在ではないのにも関わらず、です。

 

現代人は特に「目に見えない世界」を否定することで、自身に備わった「目に見えない能力・感受性」を眠らせてしまっているのは、勿体ないことだと思います。

「悪」と正しく戦う方法

日月神示の「極めの巻・第十五帖」では、「赤子心になれば打たれることはない」とあります。

 

「右の頬を打たれたら左の頬を出せよ、それが無抵抗で平和の元じゃと申しているが、それは無抵抗ではないぞ、その心根をよく洗って見つめよ、打たれる様なものを心の中に持っているから打たれるのぞ

誠に居れば相手が手をふり上げても打つ事は出来ん、よく聞きわけて下されよ、笑って来る赤子の無抵抗は打たれんであろうが、これが無抵抗ぞ、左の頬を出す愚かさを止めて下されよ、世界一家、天下泰平じゃ」

 

悪神や「神に仇なす者たち」は、わざと「怒り」を喚起するような挑発をしてきます。

「闘争」こそが彼らの喜びだからであり、「怒り」という幽界のフィールドに「善の心」を引きずり込むことができるからです。

 

向こうが剣を持って襲ってくるのだから、こちらも剣を持たなければならない」と普通は考えます。

しかし、それでは「幽界の戦い」に巻き込まれてしまい、かと言って「無抵抗」を選択すれば一方的にズタズタにされるだけです。

 

この厄介な相手と正しく戦うには、まず相手を呼び寄せる何かが自分にあることに気づくことです。

「敵」が現れるとしたら、自分の心に「敵」が潜んでいたということです。

 

ここで「心当たりがない、相手が勝手にやって来たのだ」と思う心こそ「慢心」であり、ここをまず改めなければいけません。

これこそが「戦い」であり、身魂の掃除洗濯であり、悪を抱き参らせる唯一の方法です。

 

「剣を持つ相手」を前にして、ラッパを出して太刀打ちできると思う人はいません。

しかし、ラッパ吹きの武器は陽気な「音楽」である以上、絶対に刃が立たないのです。

この最も極端な例えが「笑っている赤子」の真意です。

 

もちろん、赤子の真似をしているだけではダメで、そこまで出来れば波長が違いすぎて悪は近づけないのです。

ここに「霊界」の妙味があり、「弥栄」の智慧があるのだと思います。

「身魂磨き」とは

おそらく、神の国や天国に「他責」という観念はありません。

例え「悪」に見えても、それぞれが「役割」であり、「必然」の能きであることが明らかだからです。

 

もちろん、「悪」が全ての元凶でないのは、地上の世界でも一緒です。

私たちは普段の生活でもカチンとすることがありますが、例えば少し人と波長が違ったり、ちょっと我が出てしまっただけで「怒り」という感情が湧いてしまいます。

 

どれだけ気をつけても、どんな修行を積んでもカチンとすることはあるでしょう。

神示の中では「慢心を改めよ」とサラッと述べられることでも、私たち人間にしてみれば一生かかっても難しいことなのです。

 

「扶桑の巻・第十三帖」には、こう書かれています。

「三千年に一度と言う、二度とない結構な時が巡り来ているのであるぞ、難しい事申しているのでは無い、為せばなるぞ、

自分の中の自分を掃除して、自分の外の自分を洗濯して磨けと申しているのぞ、磨けば神と同列のミタマぞ、釈迦ぞキリストぞと申してあろう、

内にあるものを磨けば、外から響くものも磨かれた、穢れ無いものとなるのじや、中の自分を掃除しないで居ると、いつまで経っても、岩戸が開けていても岩戸は開けん」

 

「身魂磨き」とは、心を綺麗にする「掃除」、身体(口と行動)を綺麗にする「洗濯」、この二つが合わさって「身と魂」の祓い清めになるのです。

宇宙の「本質」

この宇宙、三千世界の本質は「学び」にあるのではないでしょうか。

私たち人類が「文明」を通して成長するだけでなく、神々の世界も他の世界との交流を通じて「学ぶ」のだと思います。

 

この「学び」の一環として「痛い目を見る」という経験が必要なことが多いのでしょう。

これまでの人類の歴史がそうであったように、文明の進化のためには「災い」すら重要なステップなのかもしれません。

 

「災い」には、天変地異だけでなく「人災」もあります。

世に悪事をもたらし、「人災」を司るのが「」という存在です。

 

「悪」は進歩を促す学びのために必要な存在であり、全体を通してみれば排除すべき「悪」ではなく、本質的には「」の性質を持ちます。

 

だからこそ、神示では「悪を憎むな」と教えるのだと思います。

しかし、「学び」のために悪はいずれ乗り越えられなければならず、過去のものに変わるからこそ文明は進化していきます。

 

そう考えると今の「闇の世」がどう変わるのか、変わるべきなのか見えてくるはずです。

人はおそらく、自らの成長のために「痛い目」を見ることも厭わない存在なのです。

「HITSUKU」について

私が別名義で運営している、日月神示をまとめたサイト「HITSUKU」ですが、だいぶ更新がご無沙汰になっていました。

「招神万来」では、かなり突っ込んだ部分まで踏み込んでいましたが、解説サイトの方では甘噛みに留まっています。

 

最近、日月神示を読んでいて「解釈不能」と感じる部分がかなり減ってきました。

そのため、そろそろHITSUKUの方で予告していた「用語集」なるものに取り組んでみようと思っています。

 

また、「撞賢木向津姫命」や「十柱の神々」などの解説も、よりまとまった内容で移植したいと考えています。

今、世を見通す上で重要度を増す「日月神示」の周知のために、ますます貢献することの大切さを感じます。

日月神示を簡潔に述べる

天地の大峠の「トリ」は、現界の「地の岩戸開き」をもって伊弉諾命が「別の天御中主神」の称号を頂き、名目共に天地並びに三千世界を司る大神(大日月地大神)となられることが、日月神示に述べられています。

 

今、私たちはこの世界があまりに強固な権威によって形成されていて、まるでビクともしないように感じてしまいます。

しかし、たかだか人間が知恵を凝らして数十年で作った程度のものであり、宇宙のごく一部に過ぎない地上の仕組みなど、神々から見れば塵に等しいでしょう。

 

要するに、天地を自在に構う大神にして見れば、人間から見た「絶対」は小手先程度のものです。

まして「嘘の世」「闇の世」の仕組みは、片鱗すら残らなくても無理はないでしょう。

 

こう考えると「ミロクの世」が開けた世界が、どれほど現在と交わらない世となりうるのか、想像できるかもしれません。

 

「一厘の仕組み」とは、神界に先立つ「霊主体従」の法則に則ったものと考えられます。

「一厘」とは、「奥山」の霊的社会のあり方が現世に広がっていくことであり、それが一気に波及する契機を「地の岩戸開き」と呼ぶのだと思います。

 

これを実現するには、伊弉諾命こと「天之日月神」が神懸かれる七人の身魂が必要です。

おそらく、七神人をそれぞれ動かして「実地」に仕掛けを行う必要があり、そのために「神懸かれる身魂を作れ」と神示で口酸っぱく仰られているのではないでしょうか。

 

もちろん、そんな豪胆な行動を起こす人間は、確かに人々の記憶に残るでしょう。

これが「万劫末代名が残る」ことの意味なのかもしれません。

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