「過去を乗り越える」公開

今朝、こちらで投稿した「過去の乗り越え方」という記事の詳細版として、「招神万来」にまとめました。

 

「過去」を乗り越える

 

本文でも書きましたが、最近の「絵語」の投稿は頑張って1000文字以内に収めようとしていることに気づき、そろそろ「招神万来」の方に戻って長文を書くべきかなと思い始めていました。

 

今、夏至から「変容」のエネルギーが降りてきていることはお伝えしていますが、その流れと関係があるのかもしれません。

「招神万来」のサイトにも手を加えたいと思っていたところですし、「絵語」の方も軌道修正していきたいと考えています。

 

絵や「漫画」の方は、まだゴーサインが出ない状態で、どうなるかは見えませんが裏で進めていることはあります。

「大掃除」が一段落つきそうなので、これからに期待したいと思います。

「過去」の乗り越え方

人は誰しも、心には癒えることのない「生傷」があり、多少の痛みを抱え続けてしまうものです。

 

「心の傷」というのは、自然に時間が癒やしてくれることはありますが、自分が「癒そう」としなければ何十年経っても生乾きのまま残ってしまうこともあります。

私たちは、その記憶と向き合うことが辛すぎて、「嫌な出来事」を「嫌な記憶」のまま心の奥底に眠らせてしまうために、治るはずの傷がいつまで経っても癒えないのです。

 

その苦い「経験」を意図して「学び」に変え、「過去」のものにするのは容易ではないかもしれません。

けれど「過去」というのは、「昔のあの時代」だからこそあったものであり、「再現性」はありません。

つまり、昔あった出来事はどうやっても完全に取り戻すことは不可能です。

 

冷静に考えれば当然なのですが、心が「過去」に捉われているうちは、「現在」の状況と切り分けて考えることが難しいものです。

「過去を乗り越える」には、まず「現在の自分」と「過去の自分」は違うものだという認識を持つことが大切です。

 

人は、一つの「肉体」を持ち続けるからこそ、「過去」と「現在」の自分が繋がっていると感じます。

けれど、「過去の自分」は「昔のあの時代」だから成立していた人格であり、当時の時代と共に「今はもういない」存在なのです。

 

これは、「過去の自分」が「」を迎えたに等しいということです。

つまり人は「生きながら死ぬ」とも表現でき、自分のあり方が変わるということは、人は常に「生まれ変わり」を経験しているとも言えます。

 

言わば「現在の自分」は、すでに「過去の自分」から生まれ変わっており、別の人生を歩んですらいるのです。

けれども、自分自身を地続きのものと考え、過去を「終わったもの」にできないうちは、過去と現在が混在する「錯覚」した時間軸の中で生きてしまうことになります。

 

「過去を乗り越える」には、まずこの「分別」をつけることであり、自分が向き合うのは「終わったこと」だと改めて認識する必要があります。

そのことを腹に落とし込めた時、過去の苦い記憶は「経験」となり、苦い経験は「学び」となり、今の自分の「実力」になっていくのだと思います。

 

そして、いずれ心の傷は完全に癒え、「過去を乗り越える」ことができるのではないでしょうか。

「明日晴れるかな」

桑田佳祐さんの名曲「明日晴れるかな」。

 

「熱い涙や恋の叫びも

輝ける日はどこへ消えたの?

明日もあてなき道を彷徨うなら

これ以上元には戻れない」

 

この曲はNEWSの山下智久さん主演のTVドラマ「プロポーズ大作戦」の主題歌でした。

YouTubeのコメントにあった「この頃は日本中が”青春”しているみたいだった」という言葉が、何となく突き刺さるのは私だけでしょうか。

 

「明日晴れるかな」がリリースされたのが2007年、まだギリギリ日本が元気だった頃です。

ただ、すでに貧困や派遣問題も浮上しており、我が国に「曇り空」が広がり始めていた時期かもしれません。

 

これから4年後「東日本大震災」があり、本格的に雨が降り出します。

2026年現在、我が国には土砂降りの嵐が吹き荒れています。

 

過去を思い起こせば、これまで体験したことに「良いこと」も「悪いこと」もありますが、それでも一概に「良し悪し」は言えないかもしれません。

今になってみれば、「なるようにしかならなかった」部分もあり、全てを「あるがまま」に受け止めるしかないように思えます。

 

こんなはずではなかった」と、大抵の人が思うでしょう。

しかし、かつての願いとは裏腹な現実の中で、一つでも手にした「後悔のないもの」にこそ、これまで経験してきたことの意味が詰まっているのかもしれません。

 

自分の人生が「曲がり道」だらけで、正しい道を歩んだと胸を張って言えないとしても、その歩みをなかったことにはできません。

むしろ今は、目に見える「曲がり道」だらけで、道を踏む前から「真っ直ぐな道ではない」とわかるからこそ、かえって「正しい道」を歩みやすくなっていると言えます。

 

今は土砂降りの中にいても、1万年続くような雨でも、上がらない雨はありません。

20年前の曇り空を見て「明日晴れるかな」と思っていた気持ちは、今でも抱いていて良いのかもしれません。

腹の中のゴモク

日月神示「磐戸の巻・第十一帖」には、こうあります。

「心にメグリ積むと動物のイレモノとなるぞ、神のイレモノ、動物等に自由にされていて、それで誠の神の臣民と申されるのか、分からんと申してあまりであるぞ、ゴモクを吐き出せよ、その儘ままにしておくと段々大きくなって、始末出来ない事になって、終いには灰にするより手なくなるぞ

 

いくら素直に生きようとしても、この世で上手く生活するために多少自分を曲げることは避けられません。

その時に折った「心」は、腹の底の見えない「ゴミ捨て場」に仕舞い込んでいくうちに、だんだん大きくなって悪さをし始めます。

 

私にとって「悪心」とは、「学び」のために必要な経験だったと今になって思います。

かつて、イーゼルより重いものを知らないような美術少年が、「人を殴る」ことすら経験しなければならなかったのは、決してただの間違いではなかったと今では言えるのです。

 

傷ついた分だけ人の痛みがわかり、失敗や恥の数だけ寛容さを持つことができました。

自分が「悪行」をなし、悪人と渡り合うことで「悪」を身をもって知り、ゆえに彼らの本質が手に取るようにわかるのです。

 

この「成長」があったからこそ、自分の積み重ねた罪穢れはただの過ちではなく、これからを生きる上での「」にもなります。

確かに「ゴモク」を腹に抱えないに越したことはありませんが、折れる経験をしないことにはまともな大人になることはできません。

 

大事なのは、抱え込んでしまった「闇」を放置せずに、きちんと向き合いながら「日の光」に当てていくことなのでしょう。

だからと言って「人それぞれ」の問題にすることなく、世に張り巡らされた「罠」のせいで不用意に傷つき、苦しみを抱えたままでいる人を増やさないためにも、私の経験を生かしていくべきだと思うのです。

Choice!

一昨年にデビュー30周年を迎えられたhitomiさんの新曲「Choice!」が、今の時勢にとてもタイムリーに感じます。

 

hitomi Official Website | Choice!

 

往年の名曲「LOVE2000」を入場テーマにして「鉄拳」みたいなスケッチブック芸を宴会の出し物にしていたくらい、私はhitomiさんの長年の大ファンです。

「デビュー30周年」と言ってもまだまだお綺麗で、ますます魅力に磨きをかけられている素敵な方だなと思います。

 

17日に配信リリースされた「 Choice!」は、グレーで「白黒」つけるのが難しい時代だからこそ、正しいか間違っているかを見定めて「どっちの未来を取る?」と問いかける、前向きなメッセージの曲です。

 

「白黒つけて噛み付いてた 

あの頃を認めたい」

 

時のメディアやインフルエンサーが「これが良い」と言えば、大体の人が右へ左へ流される時代だからこそ、「自分がどう思うか」は大切なことです。

若い頃は誰もが尖っていたけれど、大人になって丸くなるうちに「グレー」に合わせることが、あたかも「正しい」ようになってしまいます。

そこにメッセージを込めるあたりhitomiさんらしいというか、「JPOPらしさ」も存分に発揮された素晴らしい曲だと思います。

 

配信向けだからか、どの新曲も最近のジャケットは淡白なものが多いのですが、この「choice!」も例外なく、自宅のテーブルでスマホで撮影した写真にフリー素材を雑コラしたみたいなビジュアルがとてもツボってしまいました。

バッキバキのギャルの時代からhitomiさんを追っている人間からすると、これくらい気の抜けた感じの方が良い歳の取り方なんだろうな、と思えて微笑ましくなります。

心の「ゴミ箱」

先ほど投稿した「悪魔の生まれる理由」は、何となくモヤッとした文章に感じられたかもしれません。

それは私の身の上をする訳にはいかなかったからで、詳細を書くとますます訳のわからない文章になったと思います。

 

あの投稿は要するに、自分の「本音」を押し殺して無かったことにした念が、心の「ゴミ箱」とも言える見えない場所で「シコリ」になってしまっていたということです。

これはわりと、誰しも心当たりがあることではないでしょうか。

 

「本音の自分」を出して素直に生きようとしても、様々な事情で「建前の自分」を立てねばならず、そこで折ることにした本心が「後悔」として心の奥底に溜まり続けるのです。

現実をより良く処理して生きることにしたつもりが、かえって心に背くことで曲がった心を作り出し、自分という人格は「分裂」していきます。

 

もしかすると、あらゆる「精神病」の発端はここにあるのかもしれません。

心の「ゴミ箱」に押し込めて無いことにしたつもりの自我が、自分にはわからないところで「別の自分」となり、本体の自分に異を唱えるのです。

 

これが「我とわからない我」にも関係していて、心の闇に追いやっているからこそ、暗躍する自我を顕在意識が気づけないことになるのではないでしょうか。

 

当然、こうした心の「カス」をゴミ箱に溜めておくべきではありませんし、できるならすぐに焼却してしまう必要のあるものです。

けれど、自分を「偽る」ことすら自覚しにくいものであるため、ゴミ箱の存在から忘れてしまうこともあります。

 

もしかすると、自分が無意識で自分にしてきた「借銭」を、私は今になって返済しているのかもしれません。

やはり、自分のあらゆる行いをいずれ「清算」しなければいけなくなるのが、「大峠」なのだと思います。

「悪魔」の生まれる理由

日月神示「黄金の巻・第八帖」の内容は、「外にあるもの内にあるぞ」という一文だけです。

私に対して霊的に「良くないもの」が近寄ってくるのも、自分の中に「邪気を引き寄せる何か」があることはわかっていました。

 

自分自身を疑う卑屈な心、神様にまで悪態をつきたがる自分、そうした「自分ではない自分」が腹の底で蠢いているのは、いつも感じていたのです。

 

今ようやく、「悪心の権化」とも言える感情の正体に気づくことができました。

本来あるべき人生を辿れなかった私自身」であり、幸せになるための努力を重ねながら、「運命」に抗えなかったために自分を曲げざるを得なかった「過去の私」です。

 

かつての真っ直ぐな願いは、「人並み」に歩み進むことができれば叶うはずのものだったかもしれません。

しかし「努力」ではどうにもならないような出来事に遭遇しては、自分の力では到底及ばず、道を変えなければなりませんでした。

 

その度に折れてしまった心をどうしたかというと、「腹の底」に押し込めて無かったことにしてきたのです。

心の奥に仕舞い込んでしまった「折れた自分」こそ、無意識に暴れ出す「悪心」の正体だったことに気づきました。

 

人間はおそらく、幾重にも連なった「人格」によって、一つの肉体に収まっているのだと思います。

それが自分自身であっても、霊体の一部が「悪霊化」してしまうことがあり、これが心の中で「自分ではない自分」を作り出してしまうのではないでしょうか。

 

しかも、その悪霊を生み出した自分の「念」が、真っ直ぐで強いものであるほど、裏返った時の反動も大きいのかもしれません。

もしかすると、「悪魔」という存在がこうして生み出されるとしたら、「悪」は「善」の心が曲がることでなり変わるものであり、ゆえに本来は「善」の性質を持つものだった可能性があります。

 

私がお伝えしてきた「悪は善の一部」というのも、これに矛盾する話ではないでしょう。

こう考えると、「悪霊」とは絶対に払うべき「敵」としてではなく、歪むには歪むだけの経緯があったことを慮る余地があります。

 

私の「挫折体験」は、今思えば「どうしようもなかった」と言い切ることができます。

ただ、そんなことが当時の私に理解できるはずもなく、「運命」に準ずるほど私の心は深く傷つき、捻じ曲がっていったということなのでしょう。

 

ここまで長い時間をかけ、徹底して心を見つめなければ「自分」という存在はわからないことを、改めて痛感します。

「失敗」について

この宇宙の本質が「学び」にあるからこそ、「悪」が引き起こす禍事を通して「改善」が促され、少しずつ文明は「弥栄」へと向かいます。

この時に「過ち」や「失敗」があることで、その教訓が次に生かされるのです。

 

もし、この時期に何か失敗をしたり、問題に直面して「出戻り」する羽目になったとしても、今は天から与えられた「導き」と捉えるべきだと思います。

いずれは「天地」へ引き揚げられる段階があるためで、その前に自らを省みる機会を得ることは、それだけで幸運なことだったかもしれないのです。

 

私も、これまで何度か失敗し「炎上」したこともありますが、やらかしたからと言って命まで取られることはありませんし、何事もなかったかのように明日はやってきます。

だからこそ、人生に「やり直し」は付きものであり、痛い目を見た数だけ人は成長するものです。

 

自分が「悪の御用」を立派に果たしてしまったとしても、それ自体が予め許されているものであり、それがあるからこそ人は「改善」に向かうことができます。

失敗した時は本当に情けなく、とてつもない「恥」を抱えて生きるのもしんどいものですが、これこそ良い「成長」の機会だったりするのではないでしょうか。

 

むしろ今は、少しやらかしただけで「鬼の首」を取るような風潮があり、とても失敗できる雰囲気ではないことの方が問題です。

社会的にも経済的にも倫理的にも「遊び」がない世の中だからこそ、誰もが失敗を恐れて挑戦する気も起こりません。

私は、これが今の世に「停滞感」を与える最たる要因なのではないかと思います。

 

もし日本に再び活気を取り戻せるとしたら、そうした「余裕」を作り出すことにあるのではないでしょうか。

失敗して良い雰囲気」があるからこそ、「しくじり」の後に「成長」という良いサイクルが生まれ、社会が「弥栄」に向かうのだと思うからです。

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