新たな人生の予感

「天下の大掃除」において、「天井」に近い人々から始まった身魂の大掃除は、6月30日山羊座満月を皮切りに「佳境」に入ったかもしれません。

 

現在進行中の「二極化」の趨勢は、おそらく8月13日「獅子座新月」をもって一つの「区切り」になるのではないでしょうか。

それには、今から7月28日の「水瓶座満月」までの一月の間に、各々の「掃除洗濯」の目処が一旦立つ形になるように思えます。

 

そんな中、先月末の山羊座満月を境に、私も「体感」の変化にそろそろ慣れてきました。

今回の「大掃除」で「ゴモク」が掃き終わりそうだという時期にあって、さらに見えてきたのは「」というものです。

 

まだ「ゴモク」が腹の底にあるのを感じはしますが、何なら「我欲」に置き換わっている、良くない「癖」とも言える部分です。

この「悪癖」こそ残る課題ですが、どうもこれを掃除し終えてから、ようやく落ち着くことができそうです。

 

どうも神様は、私たち人間が予想する以上のレベルでの「身魂磨き」を要求なされているように思えます。

 

これが意味するのは、私でも「そこまで」と甘く見ていたような部分まで、神様はガッツリ手を入れるおつもりだということです。

つまり、この「天下の大掃除」の規模は、想像するより遥かに徹底したものになる可能性が高いのです。

 

私の話をすれば、この「大掃除」の間で二段階くらいは「変化」と呼べるものを感じていたのですが、まだ「仕上げ」が残っている感じがします。

ただ、もう人生が「新しいステージ」に入ったことがわかるほど、体感が大きく変わってきました。

 

いずれ詳しくお伝えしますが、少なくとも私が言えることは、「ゴモク」を掃き切った後の心境は、これまでとは全く違うということです。

日月神示「地つ巻・第三十五帖」に「借銭返す時つらいなれど、返した後の晴れた気持ち良いであろうが」とありますが、「これか」という印象です。

「凸凹」だらけの人生

思えば、私の半生は「凸凹」だらけの不恰好なものでした。

ただ、その半生に「学び」を求めるならば、「人生に完璧はありえない」ということかもしれません。

 

私の若い頃は、何でも「完璧」にやりたがる癖がありました。

上手くいくことだけを数珠のように繋げて、あたかも「芸術」のような人生が送れると思い込んでいたのです。

 

けれど、本気で生きてみれば全く脈絡なく、失敗も多い「凸凹」だらけの人生を歩んでしまいました。

今となってみれば、「人生に完璧を求めることこそ幻想」であると断言できます。

 

これが私の人生前半における「学び」のテーマであったにせよ、こうした価値観で今を生きる人も多いはずです。

挫折なく汚点なく、「成功体験」だけで積み上げたキャリアこそ、人は「理想の人生」と考えますが、実際は自分の見せたい「」以上に上手くはいかないものです。

 

それどころか、この世を生きる殆どの人は、人生の目的について「間違った解釈」をしているとすら言えます。

ただし「学び」を軸とするなら、「間違っている」こと自体が「正しい道」だったりするのです。

世の中がそうであるということは、これに気づき「学び」を得ることこそ、「人類の歩み」そのものと言えるからです。

 

このことに私が気づけたのは、「神の道」を踏むことで、立体的にものを考えられるようになったからです。

また、自分とは違う考えで生きる人に「優劣」をつけられないこともわかっています。

 

ただ、こうした考えを持つことで、人のあり方について「寛容」になることはできます。

そして少しでも、私自身が人々にとって「人生の向き合い方」のヒントとなるような、そんなきっかけになっていきたいのです。

「スマホ」のない未来

現代では「スマホ」を使わずに生活することの方が難しくなっています。

けれど、このスマホが米国企業のたった「2社」に提供されているサービスだということを、今改めて考える段階に差し掛かったと言えます。

 

近ごろ経済の話題は避けていましたが、この意味がわかるようなニュースがそのうち飛び込んでくるはずです。

 

「スマホ」のOSや主要なアプリの殆どは、米国のハイテク企業に集中しています。

もしこれらが「無くなる」未来があるとすれば、資本規模や市場シェアや人々の依存度から、誰しも「あり得ない」と言うでしょう。

 

これだけ多くの人が使っているのだから、米国企業はコケてもスマホはなくならない」と、その意見もわかります。

しかし、この巨大なプラットフォームを管理する大企業が、大規模な市場から莫大なマージンを吸収する仕組みであるにも関わらず、堅実な事業運営に繋がっていないとしたらどうでしょうか。

 

「巨大企業」だからこそ成り立つ「スマホ」というプラットフォームは、同じビジネスモデルを踏襲する限り「世界的大企業」でなければ運営できないでしょう。

新しくスマホ市場に進出する企業があるとすれば、これまでのAppleやGoogleと同じ事業路線を踏むことは困難になります。

そうした時、私たちはいつまで手元の「スマホ」を使い続けられるでしょうか。

 

「電話」や「カメラ」「CDプレーヤー」、「本」や「ゲーム機」などの機能をスマホが集約したことで、各業界は需要の移行を受けて衰退し、従来の産業構造は変化を余儀なくされました。

つまり、今はスマホを使わずに「同じことをやる」のが却って難しい状況になっていると言えます。

 

逆に言えば「スマホがやっていることを全く別のやり方に置き換えることは、産業としての広がりを持つには十分」ということです。

誰しも、未来もやっぱり「スマホ」にあると疑わない時だからこそ、「脱スマホ」にはとんでもないビジネスチャンスがあると私には思えてならないのです。

「人生」とは何か

人生は楽しんだもの勝ちだ」と、大抵の人は考えます。

そうして好きなこと、楽できることを集めて生きようとしますが、自然に「楽しいこと」よりも「苦しいこと」の方が多くなってしまうのが人生というものです。

 

「苦しいこと」の比重が圧倒的に高いからこそ、人生は「修行」とも言えるのです。

上手くいくことばかりではなく、失うものの方が多いからこそ、「学び」と共に人は成長していきます。

 

どれだけ好きなものでも、いつかは古くなって廃れていきます。

いくら情熱を注いだものでも、いつかは続けられなくなってしまいます。

心から愛している人だって、いずれは別れや「死」が訪れるでしょう。

 

こうした経験は、今を生きる「自分」を成長させるだけでなく、命が尽きた後の世界でも、自分のものとして残り続けます。

そうして人は、生まれ変わり死に変わり「学び」を続け、より高い「自分」になるために「修行」を続けるのです。

これが、私たちの生きる「理由」です。

 

だから「楽をするのが目的」というのは、本来は輪廻の目的には添わないものです。

けれど、いくら願ってもそうならないのが宇宙であるため、この試みが「叶わない」ことを知るのもまた「学び」になるのでしょう。

 

ただし、成長のために「苦しめばいい」ものではなく、どんな学びも「楽しむ」方が良いに決まっています。

そうして「学び」に前向きである人ほど、実は成長が早かったりします。

「霊障」について

昨今、「霊障」を受けて不調を訴える人が多いように見受けられます。

大抵の人は「霊」の存在など信じていませんし、自分の心身の不調と関係があるなど思いもよらないでしょう。

 

「霊障」とは気づかず、普段あまり感じたことのない不調のため、「変な病気」ではないかと考えて病院に行くことすらあるかもしれません。

もちろん、何らかの処方を受けて物理的に改善することはありますが、担当医からお茶を濁されて病名も特定されないことの方が多いはずです。

 

今「次元上昇」の煽りを受けて「霊」の世界で混乱が起きているため、人に懸かろうとする悪霊の類が増加しています。

これらの「魑魅魍魎」の類が人間に悪さをすると、「霊懸かり」となった人間は負の念が増幅され「生霊」を飛ばし始めるのです。

「生霊」に取り憑かれた人がさらに「生霊」を飛ばす、この「連鎖」が霊障による混乱を大きくさせていると言えます。

 

また、自ら「次元上昇」して霊体の波長が変わる時、同じような不調に見舞われることもあります。

この「好転反応」期も、霊的上昇を妨げようと悪意を持つ霊が接近しやすくなり、平常心がますます乱れがちになります。

 

よほど霊感が鋭い人でない限り、自分の肉体に感応を及ぼす霊の正体に見分けはつかないはずです。

ただ傾向として、精神的な落ち込みや一時的な感情の暴走が伴う場合、相手が「幽界」に属する存在と考えて間違いないでしょう。

「生霊」は相手と具体的な関係にあることが多いので、念を飛ばすその人次第ではあるのですが、主に「身体的影響」が強く出る傾向があります。

 

今、「悪神」始め「神に仇なす者たち」は、人間の思考を狂わせるためにあらゆる手段を講じています。

わざと「挑発的」な出来事を起こして人の集中を奪ったり、心の隙を狙って変に執着させて、仕事や人間関係をクラッシュさせることすら実行に移しています。

 

こうした「霊懸かり」が深刻な状況のため、日月神示でも「褌(ふんどし)を締めよ」「腹帯を締めよ」と、注意喚起をするのです。

ここで変に狂わされないためには、近寄ってくる「念」の気配をよく観察する必要があるのですが、とりあえずは自分の波長を整理することに専念すれば間違いありません。

 

「霊懸かり」も、「霊など存在しない」という思考の隙を狙って肉体に飛び込んでくるので、この点を知っているかどうかだけでも違うはずです。

私たちにできる事

正直、今の「日本」を取り巻く状況は非常に暗いものです。

高市政権は「根も葉もない」ような新興分野に370兆円の投資を決め、日本政府は「Society5.0」や「ムーンショット計画」など、頭が痛くなるような「日本人サイバー化プロジェクト」を推し進めています。

まさに「憂国」ならぬ、「狂国」の道へと着実に向かいつつあります。

 

これが国家的エリートの頭の中か」と思うと、本当に倒れそうになるのですが、今は致し方ありません。

むしろ、こうした暗澹たる気持ちになりそうなニュースに対して、私たちは徹底的に「理性的」であるべきなのです。

 

なぜ「悪を憎んではならぬ」、「怒りは慢心である」と神示にあるかと言えば、例えばこうした情報を目にした時に抱く「嫌悪感」、「怒り」や「憎しみ」の感情は、それぞれ分類して処理する必要があるからです。

 

「好き嫌い」という感情は、個人の趣味嗜好なので一先ずは良しとします。

しかし「怒り」は「自分が正しい」と思うがゆえの排他精神に繋がり、ゆえに「慢心」なのです。

「憎しみ」に関しては、相手を「悪」として負の念の対象にすることで、「神の一面」としての悪を否定することになるからです。

 

なぜ、「悪」は反省なく今日も増長を続けるのに、抑えつけられる側の私たちが「大人」にならなければいけないのか、腑に落ちないかもしれません。

けれど、数年後の先から「万劫末代」続く「神世」のためには、全ての悪の振り幅を網羅するような基礎が必要であり、その「礎」を担っているのが私たちであることを忘れてはなりません。

 

ここで「悪」の振る舞いに屈してしまうようでは、日本を立て直し「神世」の礎を築くことはおろか、「岩戸開き」すら覚束ないでしょう。

だからこそ、「腹が立つ」ことでも腹を立てず、「腑が煮えくり返る」ようでも腹を立てず、堪えに耐え、どこまでも「大人」でいなければならないのです。

 

それでもいつか「時節」は到来し、一気に全てが解決に向かう時は訪れるはずです。

そのことを信じ、神を信じて、ひたすら自分を磨き続ける、それこそが私たちにできる天の御用、「神業」なのです。

「不動の心」

昨今の状況を見るに、やはり「悪神」の御力は絶大と感服せざるを得ません。

元々「天」の性質が強い善良な人でも、今では「社会的立場」や「人としての道理」に流されて、知らずのうちに「」の側に回っているように見えます。

 

もちろん、彼らはこの判断が「正しい」と確信しているでしょうし、今の社会では「ヒューマニズム」として通うような理想論です。

ただ、人間としては「正しい」考えが、「天」から見て正しいとは限らないのです。

 

どう見ても、私の主張が「不利」に傾く一方のように思えますが、逆に不利になるほど「日月神示」の通りになっていくと言え、私の主張も一貫性を帯びてきます。

「悪神」の御力が存在感を示すほど「神」という存在は際立ち、人々が「悪」の側に回るほど、「日月神示」の予言への信憑性は高まっていくのです。

 

最近、世に起こることに「実はこういうことなんだよ」と注釈を入れなくても、遠目から見れば大体わかるようになってきていますし、私が詳しく説明しなくても「いずれはそうなる」と言って差し支えないことに、確信が持てるようになってきました。

ただ、これを人にわかるように伝えるのが難しいことは認めますし、こうした言い回しが弁解じみたものに思えてしまうも承知しています。

 

私が言えるのは、「ますます自分の主張に確信が持てるようになった」ということです。

「神の導き」を自分の中に強く感じるからこそ、世に正反対のことが起きても「予想通り」であり、かえって自信に変わるのです。

これを言うなれば、「不動の心」と表現できるかもしれません。

 

日月神示「磐戸の巻・第十九帖」には、こうあります。

 

「向こうの国にいくら物や人があっても、生神が表に出て働くのだから神無き国はいずれは往生だぞ、この神の申す事よく肚はらに入れて、もうかなわんと申す所を堪こらえて、またかなわんと申す所を堪えて、いよいよどうにもならんという所を堪えて頑張って下されよ、神には何もかもよく分かって帳面に書きとめてあるから、どこまでも死んでも頑張って下されよ、そこまで見届けねば、この方の役目果たせんのぞ、

可哀想なれど神の臣民殿、堪えに堪えて、誠をどこまでも貫いて下されよ、誠の生神様がその時こそ表に出て、神の臣民と日本に手柄を立てさせて、神から篤く御礼申して善き世に致すのであるぞ、腹帯をしっかり締めてくれよ、重ねて神が臣民殿に頼むぞよ、守護神殿に頼むぞよ」

 

この御言葉を残された「天之日月神」こそ、我が国「日本」をお造りになられた「伊弉諾命」なのですから、何を躊躇う必要があるでしょうか。

過去の乗り越え方Ⅱ

自分の内面を見つめる時、「過去の出来事」の苦い記憶と向き合うことはどうしても避けられません。

 

「過去の乗り越え方」という記事では、「過去と現在を切り分け、終わったことを自覚する」という方法を書きました。

ただ、過去の出来事と現在の感情が繋がっているうちは、「記憶」と「情緒」が一緒くたになっているため、「終わったもの」という理性的な判断が通らず、完全に過去のことにするのは難しいものです。

 

これは「記憶」に対する「主観」が、「映像記憶」などで残る体験と、当時の感覚や現在の印象を紐づけることで起きています。

実は「過去にあった出来事」と「当時の感情の記憶」、「現在も抱く印象」はそれぞれ別であり、完全に切り離しができるものです。

 

つまり脳内の「記憶」だけを切り離して、過去に対する感情の一切を捨て置くことは可能です。

「記憶」は一応の事実として、それに対する「感情」だけを浄化することに専念すれば、少しは心の整理がつきやすくなるかもしれません。

 

ちなみに、「記憶」とは「場面」と「あらすじ」、その時の「印象」に加え、現在の「解釈」で成り立つものですが、実はこれに「事実」という要素が隠れています。

この「事実」は、一度過ぎ去ってしまえば殆ど確認する方法がないのですが、わりと自分自身で「真実」と思っていた記憶と「事実」が違うことはままあるのです。

 

だからこそ、過ぎ去った記憶にいつまでもこだわる必要はどこにもありません。

全てを「経験の一部」として、己の成長に変えれば済む話です。

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